毛利元就が中国地方の覇者へ駆け上がる道のりにおいて、佐東銀山城の戦い(さとうかなやまじょうのたたかい)は、初期の最大の転換点となりました。
天文9年(1540年)、毛利家は尼子氏の圧倒的な大軍に本拠地の吉田郡山城を攻められるという、最大の試練に直面します。
元就は巧みな外交戦略と堅固な防衛でこの滅亡の危機を乗り越え、毛利家の命運を繋ぎました。
この勝利に続き、元就は安芸武田氏(あきたけだし)の拠点である佐東銀山城を攻め落としました。
この佐東銀山城の戦いの勝利こそが、安芸国(現在の広島県西部)に勢力を張った安芸武田氏を滅亡させ、毛利家が安芸国を支配する決定的な契機となったのです。
本記事では、この戦いがもたらした決定的な影響と、毛利家の飛躍について解説します。
佐東銀山城と安芸武田氏

佐東銀山城は、代々安芸国の守護職を務めた名門・安芸武田氏の本拠地です。
この城は、瀬戸内海の水運と山陽道を押さえる要衝に築かれた天然の要害でした。
戦国時代に入り、安芸武田氏は尼子氏と連携を深めます。
天文9年(1540年)8月、尼子氏の当主である尼子晴久が率いる大軍が毛利家の吉田郡山城を攻めた際、安芸武田氏もその主戦力として加わりました。
佐東銀山城は、尼子氏の安芸国支配の最前線基地としての役割を果たしていたのです。
元就にとって、安芸武田氏を打ち破ることは、安芸国で独立した勢力として生き残るための絶対条件でした。
吉田郡山城の戦い:尼子氏の野望を挫く

天文10年(1541年)1月に元就は、宗主である大内氏からの援軍を得るという外交戦略と、吉田郡山城での籠城戦術により、尼子氏の大軍を退けることに成功。
この勝利は、尼子氏の安芸国における威信と影響力を決定的に失墜させました。
そしてこの大敗によって最も大きな打撃を受けたのが、尼子氏に深く頼っていた安芸武田氏でした。
佐東銀山城の戦い:安芸武田氏滅亡

尼子氏が安芸から撤退した直後の天文10年(1541年)5月、毛利家は安芸武田氏の拠点である佐東銀山城を標的にします。
尼子氏の敗走を知った当主の武田信実は、城を捨てて逃亡。
城に残った武田氏の一族、武田信重は残る兵300人余りと共に抵抗を試みました。
しかし毛利軍との力の差は歴然であり、城はついに落城。
これにより、安芸国の名門であった安芸武田氏は事実上滅亡しました。
佐東銀山城の陥落が毛利家にもたらした成果
佐東銀山城の陥落と安芸武田氏の滅亡は、毛利家にとって計り知れない利益をもたらしました。
毛利元就はこの勝利を足がかりに、後の中国地方支配へと続く強固な地盤を確立します。
具体的な成果は以下の通りです。
- 長年の敵対勢力の排除
- 安芸国中枢部の支配権確立
- 大内氏への忠誠を示す
- 新たな領地と資源の獲得
- 国衆の中での地位向上
特に安芸国の中枢部を掌握したことは、後の毛利家の経済力と軍事力の基盤となりました。
勢力図の激変:吉川家乗っ取りの布石

佐東銀山城の戦いの勝利は、安芸国人衆の勢力図を劇的に塗り替えました。
この戦いを通じて、元就は武力で脅威を排除するだけでなく、その後の長期的な戦略も展開しました。
この戦いの後、元就は安芸国北部の有力国人である吉川氏との関係を深めていきます。
安芸武田氏の血縁と近かった吉川家が、この戦いを境に毛利家へ急接近します。
やがて、元就の次男である吉川元春が吉川家を継ぐという「吉川家乗っ取り」の布石が打たれたのです。
佐東銀山城の戦いは、安芸国の覇権を確立しただけでなく、後の「毛利両川」の礎を築くという、元就の壮大な謀略の出発点でもあったと言えるでしょう。
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尼子の大軍を退け、安芸武田という宿敵を滅ぼした戦果は計り知れない。
大内殿を動かした外交力、そして戦後の冷徹な支配確立。これが、元就殿が「謀神」と呼ばれるゆえんでござるな。


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