【上田宗箇流の流祖】戦場と茶室を往還した生涯:武人・上田重安が「宗箇」となるまで

竹藪にいる上田宗箇 人物伝

戦国の世が終わりを告げる頃、ある一人の武将が、血生臭い戦場と静謐な茶室という、対極の道を極めました。

彼こそが、茶道上田宗箇流の祖、上田宗箇(うえだそうこ)こと上田重安(うえだ しげやす)です。

武士の魂を茶に込めた重安は、いかにして独自の武家茶道を確立し、広島の地にその精神を刻み込んだのでしょうか。

彼の波乱に満ちた生涯と、その文化的功績を辿ります。


乱世に生まれた猛将:上田重安

重安は、戦国時代末期の永禄6年(1563年)に生まれ、丹羽長秀、豊臣秀吉、浅野幸長、浅野長晟などに仕えた武将でした。

特に、豊臣家の家臣として名を馳せています。

彼を語る上で欠かせないのが、その「武闘派」としての側面です。

重安は、常に戦場で一番の功を立てる一番槍(戦場で真っ先に敵陣に突入すること)を志向し、数々の合戦で武勲を挙げました。

武勲の例

九州征伐、小田原征伐、大阪の陣などで常に最前線に立ち、武勇を示しました。

その勇猛さは、越前国に1万石を与えられて大名となる、秀吉の正室であるおねの従兄弟の娘を正室に迎えるなど、豊臣政権内で確固たる地位を築く一因にもなりました。

関ヶ原の戦い後に剃髪し、「宗箇」と名乗ります。


茶人への転身

血気盛んな武将であった重安ですが、その一方で、彼は当代一流の茶人たちに師事し、「侘び寂び(わび・さび)」の境地を深く追究しました。

重安の茶の道への関心は、茶の湯と深い関わりがあった豊臣秀吉の側近であったことから、自然な流れで始まりました。

師事した二人の巨匠

千利休と古田織部
  1. 千利休(せん の りきゅう):茶道の完成者である利休の茶に触れ、その静かで奥ゆかしい美意識(静中の美)を学びました。
  2. 古田織部(ふるた おりべ):利休の死後、茶の湯を継いだ織部に師事。織部が追求した、「武将らしい大胆で自由な美意識(動中の美)」は、重安の感性と深く共鳴しました。

重安は利休の教えの「静」と、織部の教えの「動」を融合させ、武将としての自身の境遇と精神性を反映させた、独自の「武家茶道」を確立していきます。


武士の魂を込めた茶:「敵がくれ」に秘められた境地

竹藪で茶杓を削る、上田宗箇

宗箇の武人茶人としての精神を最も象徴するのが、彼が自ら削ったとされる茶杓「敵がくれ」にまつわる逸話です。

大坂夏の陣の最中、敵の急襲を目前にした竹藪に身を潜めていた宗箇は、竹を切り、小刀で平然と茶杓を削り始めました。
そのあまりの泰然自若とした姿に、かえって敵兵が不審を抱き、逃げ去ったと伝えられています。

この逸話は、戦乱の極限状態においても、茶の湯の精神によって心を平静に保ち、無心で「今を生きる」という武士の境地を示しています。


広島藩での流派確立

元和5年(1619年)、重安は主君・浅野長晟(あさの ながあきら)に従って広島藩へ入封、1万2千石の家老となります。

この広島の地で茶道と造園に力を注ぎ、茶道を広めたほか、現在の縮景園を作庭しました。

重安が築いた「武家茶道・上田宗箇流」は、広島藩の上田家によって代々受け継がれ、今日までその伝統を守り続けています。
武将として最前線に立ち続けた重安の生涯が、広島の文化の中に不滅の精神として刻まれているのです。


侍のコメント
侍のコメント

一番槍を誇る武勇と、茶の湯を両立されたとは、まさに文武両道の極み。
「敵がくれ」の逸話に滲む不動の精神こそ、武士の理想とする静心であろう。

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