【伝説の始まり】謀略の原点:毛利元就が「最小の犠牲」で鏡山城を落とした計略の全貌

鏡山城の戦い 戦い

「謀神(ぼうしん)」と呼ばれ恐れられた戦国大名、毛利元就(もうり もとなり)

彼の謀将としての名声を決定づけた初期の戦いこそが、大永3年(1523年)6月に起きた鏡山城の戦い(かがみやまじょうのたたかい)です。

この一戦が、彼の運命、ひいては中国地方の勢力図をどう変えたのか、その全貌を解き明かします。


智将の誕生:元就、初の「謀」による勝利

出雲の尼子氏の当主・尼子経久(あまご つねひさ)は、ライバルである大内氏の主力が九州北部へ出払っている隙を突き、鏡山城を攻略すべく軍を進めました。

服属させていた安芸国の国衆を動員し、城攻めを開始します。

当時、安芸国の小領主であった元就は、この戦いに尼子氏の援軍として参戦しました。

鏡山城は大内氏の重要拠点でした。

城主の蔵田房信が奮戦していたため、尼子軍の力攻めは難航。

そこで元就は、巧妙な「計略」を仕掛け、勝利に導きます。

この勝利が、若き元就の才能を世に知らしめる謀略キャリアの原点となったのです。

鏡山城攻略を決定づけた「内応」工作

元就は、打開策として「調略」で敵の戦力を削ることにしました。

城主・蔵田房信の叔父にあたる蔵田直信に対し、家督相続を約束することで寝返るように誘いかけます。

直信はその誘いに応じ、城内に尼子軍を引き入れます。

これにより、鏡山城は瞬く間に陥落。

房信は妻子と城兵の助命を嘆願した後、自害しました。

この鮮やかな勝利は、元就の「状況を分析し、最小の犠牲で最大の成果を得る」という戦略的思考を象徴しています。


亀裂:謀略がもたらした最大の転機

鏡山城の戦いは、元就の謀略家としての才能を開花させただけでなく、彼の生涯を決定づける戦略的転換点ともなりました。

落城後、経久は房信の嘆願を受け入れ、その妻子と城兵の命を助けます。

しかし、直信に対して裏切りを咎めて処刑を命じ、元就に対しては恩賞を与えませんでした。

元就は約束を反故にされ、さらに一番の戦功を挙げたにもかかわらず、恩賞を与えられなかったのです。

元就の鮮やかで周到な計略を見て、経久が彼を「警戒すべき危険な才能」と認識したからです。

この対応は、元就に不信感を抱かせ、後の「尼子氏からの離反」、そして「尼子氏討伐」へと繋がっていきます。


侍のコメント
侍のコメント

力攻めせず、内から崩す計略、まさに元就殿の真骨頂。だが、この勝利が経久殿に「警戒心」を抱かせた。
その器量を見抜いた経久殿の眼力も恐ろしいが、それを敵に回したのは、最大の誤算であろう。

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