戦国時代、瀬戸内海の制海権を握ることは、中国地方の覇権を握ることに等しい意味を持ちました。
この海域で圧倒的な力を持っていたのが、村上水軍です。
村上元吉(むらかみ もとよし)は、村上水軍の三家の中の能島村上水軍(のしまむらかみすいぐん)の頭領・村上武吉(むらかみ たけよし)の嫡男として生まれました。
彼は、父が築いた「海賊大将」の地位と、瀬戸内を支配する巨大な船団を受け継ぎ、毛利氏の海上戦略の要として活躍します。
元吉の生涯は、毛利氏の隆盛と衰退、そして天下統一という激動の波に翻弄された、海に生きた武将の矜持を示すものでした。
毛利氏との強固な「与力」関係

毛利元就は、瀬戸内海の航路と水軍の重要性を深く理解していました。
特に、厳島の戦い(1555年)で陶晴賢を破り、中国地方の覇権を確立できたのは、能島村上水軍、来島(くるしま)村上水軍、因島(いんのしま)村上水軍の「村上三家」の協力あってこそでした。
能島村上水軍が厳島の戦いで見せた、潮の流れを読み切る高度な航海術と海上封鎖の戦術は、毛利氏の勝利を決定づける要因となりました。
元吉が実質的な指揮を担うようになってからも、能島村上水軍は毛利氏の「与力」という形で、戦略的な協力関係を維持しました。
能島村上水軍が担った具体的な役割は多岐にわたります。
- 海上護衛: 毛利領の島々や航路を海賊行為から守る。
- 関銭徴収: 瀬戸内海を航行する船から関銭(通行料)を徴収し、財源を確保する。
- 物資輸送: 大量の兵糧や武器を迅速かつ安全に輸送し、陸戦を支援する。
激動の海戦:織田信長との対決

村上元吉の武将としてのキャリアは、毛利氏の宿敵となった織田信長との激しい海戦を通じて頂点を迎えます。
石山本願寺を巡る海戦で、元吉は能島村上水軍を率い、毛利方として参戦。
天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦いでは、焙烙火矢(ほうろくひや)などの火器を駆使し、織田水軍を打ち破るという大勝利を収めました。
しかし、信長が九鬼嘉隆に命じて建造させた鉄甲船(てっこうせん)が登場すると、形勢は逆転します。
天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いでは、能島水軍は鉄甲船の前に敗北を喫し、毛利氏の海上優位は崩れ去りました。
第二次木津川口の戦いには父・武吉が参戦し、元吉は参戦しなかったとされています。
元吉は、その後も豊臣政権下で毛利氏に従い続けました。
関ヶ原の戦いでの悲劇的な最期
村上元吉の生涯は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで悲劇的な結末を迎えます。
西軍(毛利方)についた元吉は、毛利氏の家臣として、かつての故地である伊予国(現在の愛媛県)の加藤嘉明(かとう よしあき)を攻める作戦に参加します。
しかし、伊予の三津浜で加藤軍と激戦となった際、元吉は奮戦むなしく討死を遂げてしまいます。享年48歳でした。
元吉の死は、能島村上氏にとって大きな損失でした。
しかし、彼の忠誠心は無駄にはなりませんでした。
戦後、毛利氏が周防・長門の二か国(長州藩)に減封された後も、能島村上氏の系統は毛利氏の「船手衆」として存続しました。
能島村上水軍が毛利氏三代にわたり捧げた忠義は、毛利氏が戦国を生き抜き、江戸時代に大名として存続するための不可欠な海上の屋台骨だったのです。

父の築いた力を、毛利家のために余すことなく捧げた忠義は見事。
その忠誠が、後の長州藩の海を守る礎となったことは、水軍の誉れであろう。



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