戦国時代、中国地方の覇者として名を轟かせた毛利元就(もうり もとなり)。
「謀神」とも称された彼の類まれなる智略は、一体どこから受け継がれたのでしょうか?
そのルーツを遡ると、鎌倉幕府の創設期に源頼朝を支えたブレーン、大江広元(おおえ の ひろもと)にたどり着きます。
公家出身でありながら、武家政権の礎を築いた広元。
彼がいなければ、その後の毛利家の歴史はなかったかもしれません。
今回は、大江広元の生涯と、毛利家が誕生するまでのドラマを紐解きます。
鎌倉幕府を支えた知性、大江広元の偉大な功績
大江広元は、京都の公家から源頼朝に招かれ、鎌倉幕府の創設に多大な貢献をしました。
彼は武士ではありませんでしたが、その政治的な才能と知識は頼朝に深く信頼されます。
広元が特に重要な役割を果たしたのは、以下の点です。
- 政所(まんどころ)初代別当:幕府の財政・政務を司る中枢機関のトップに就任し、武家政権の行政システムを確立しました。
- 守護・地頭の設置を提案:国や荘園を支配する役職である「守護」「地頭」の設置を頼朝に進言し、幕府の全国的な支配体制の基盤を作りました。
- 承久の乱での進言:頼朝の死後、承久の乱(1221年)が勃発した際、京都の朝廷との防衛策が議論される中、頼朝の正室・北条政子と共に「防戦ではなく、直ちに攻め上るべし」と進言。この大胆な戦略が幕府の勝利を決定づけました。
広元は公家社会と武家社会、両方に通じた類まれな知性で、鎌倉幕府という新しい国家体制を盤石なものにしたのです。
「毛利」を名乗った四男・季光

大江広元には多くの子がいました。
その四男である季光(すえみつ)が、後の毛利家の祖となります。
季光は父の威光を受け継ぎ、武士として幕府に仕えました。
- 所領の獲得:季光は、父から相模国(現在の神奈川県)にある毛利荘(もりのしょう)の所領を相続したことから、「毛利」という名字を名乗り始めました。
- 戦場での活躍:父の進言で勝利した承久の乱で武功を立て、幕府の要職である評定衆にまで昇進しました。
順風満帆に見えた毛利家の歴史ですが、季光の時代に最大の危機を迎えます。
滅亡寸前の危機を乗り越えて:繋がれた血筋

季光は、時の執権・北条時頼と対立していた有力御家人、三浦氏と姻戚関係にありました。
宝治元年(1247年)、北条氏と三浦氏が激突した宝治合戦が勃発すると、季光は妻の実家である三浦氏側に加担することを決意。
しかし戦いに敗れ、一族の多くとともに自害して果てました。
この合戦により鎌倉にあった毛利一族の大半が滅び、毛利家は歴史の表舞台から姿を消してしまいます。
ところが、季光の四男・経光(つねみつ)だけは乱に加わっておらず、越後国(現在の新潟県)にいたために難を逃れました。
この危機から生き残った経光の子孫・時親(ときちか)。
彼こそが、後に安芸国(現在の広島県西部)の吉田荘に移り、戦国時代に西国の雄となる毛利元就へと繋がっていくのです。
毛利家の通字:「広」と「元」の由来

毛利家には、「広」や「元」を名前につけた人物が多数います。
元就、隆元、輝元、綱広、吉広、宗広…
これは、毛利家の祖先である「大江広元」の名前から字を継承しているためです。
毛利家が代々この字を用いることで、鎌倉幕府の創設期に活躍した偉大な祖先の威光と血筋を後世に示し続けていた、と言い換えることができます。
まとめ
大江広元から始まる毛利家の歴史は、知恵と武勇、そして滅亡の危機を乗り越えた、波瀾万丈なドラマでした。
- 大江広元:源頼朝のブレーンとして鎌倉幕府の礎を築いた。
- 毛利季光:広元の四男。相模国毛利荘から「毛利」を名乗り、武士として活躍。
- 宝治合戦:季光が三浦氏に味方し敗北、一族は滅亡の危機に瀕する。
- 経光の系統:季光の四男・経光の子孫が生き残り、後に安芸国へと移り、戦国大名・毛利元就へと血筋を繋いだ。
広元の優れた知性が、遠い子孫である元就の「謀神」としての資質に影響を与えたかどうかは定かではありません。
しかし、毛利家のアイデンティティを形作った始祖であることは間違いないでしょう。
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季光公が「毛利」を名乗り、滅亡の危機に瀕しながらも、経光公の血筋が残ったは天運。
家祖・広元公の知の系譜が我が血脈に流れておると思えば、心強い限りよ。

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