【毛利家分裂の危機】相合殿事件とは? 毛利元就の弟・元綱はなぜ粛清されたのか

毛利元就と相合元綱の対立 戦い

中国地方の覇者・毛利元就にとって最初の難関は、外敵との戦いではなく「一族の内紛」でした。

大永3年(1523年)7月15日、幼くして家督を継いでいた当主の幸松丸(こうまつまる)がわずか9歳で早世。

毛利家は当主不在という滅亡の危機に陥ります。

この混乱を収めるべく、幸松丸の後見役の元就が家臣団に推される形で家督を継ぎました。

しかし家督相続から間もなく、元就は弟を擁立しようとする家臣団との衝突に直面。

彼らを粛清し、家中の統一を図ります。

この事件こそが、毛利元就の冷徹な戦国大名としての出発点となった「相合殿事件(あいおうどのじけん)」です。


相合殿事件の概要と発生の背景

元就が新たな当主となったことで、騒動は一旦は収まりました。

しかしこの家督相続に対し不満を抱く者もおり、家中には依然として不穏な空気が漂っていました。

彼らは尼子氏の支援を受け、元就の異母弟・相合元綱(あいおう もとつな)を新たな当主として擁立するため、「謀反」を企てます。

元綱派の中心人物は、渡辺勝(わたなべ すぐる)、坂広秀(さか ひろひで)といった一部の有力家臣です。

元綱は元就の弟であり、当主の座を巡って元就と並び立つ可能性を持つ存在でした。

この内紛の背景には、当時の毛利家が抱えていた構造的な問題がありました。

  • 不安定な家督継承: 元就の家督継承は「家臣団に推された」という側面が強く、絶対的な権威が確立されていませんでした。
  • 国人衆の連合体: 当時の毛利家は、安芸国人衆の緩やかな連合体に近く、当主の座を巡って一族や重臣が分裂しやすい土壌がありました。
  • 尼子氏の調略: 事件の背後には、毛利氏が服属していた出雲の尼子氏の影があったとされています。尼子氏は元就より扱いやすい元綱を擁立することで、毛利氏を意のままにしようと企んだのです。

謀反の顛末:元綱派の粛清と家中の統一

元綱派の家臣たちは、尼子氏の重臣と通じるなど不穏な動きを見せ始めました。

これを知った元就は、大永4年(1524年)4月8日、元綱と自らに敵対した家臣団に対して非情かつ迅速な決断を下しました。

  • 相合元綱を誅殺
  • 謀反の中心人物であった家臣団を粛清。

この決断によって元就は一族の内紛を血で断ち切り、家督を巡る不安定な要素を排除しました。

元就は元綱と仲が良かったため、「苦渋の決断」であったとも言われています。


相合殿事件が毛利家にもたらしたもの

この事件は、毛利氏の歴史において極めて重要な転換点となりました。

  • 元就は「戦国乱世を生き抜くためには、たとえ肉親であっても排除する」という冷徹な覚悟を示しました。
  • 尼子氏に対する不信感を強めた元就は、尼子氏との従属関係を断ち切り、大内氏の傘下に入ることを決めました。この決断を機に毛利氏と尼子氏は敵対し、両者の間に戦いが起こる契機となります。

元就に与えた教訓:「一族の結束」

後に元就は、三人の息子(隆元・元春・隆景)に「三子教訓状」として、一族の結束の重要性を説きました。

三子教訓状(さんしきょうくんじょう)とは

「三矢の訓」の元になったとされる文書。

その背景には、この事件が原点にあった可能性が高いでしょう。

彼はこの事件で肉親を排除し、家中の統一を図りました。

この経験から「一族の結束がなければ、家は敵に利用され滅びる」という生涯の教訓を得たと考えられます。


まとめ

毛利元就の人生における最初の難関は、外敵ではなく内敵との戦いでした。

この事件を乗り越えた毛利氏は、安芸の一豪族から元就を頂点とする強固な戦国大名へと脱皮を遂げます。

そして中国地方の覇者へと至る、その第一歩を踏み出したのです。


毛利元就のコメント
毛利元就のコメント

弟といえど、家中を乱し敵国に内通した者を許すことは、大義が立たぬ。
肉親の情に流されれば、家は分裂し滅びる。この件でわしは、戦国を生き抜く冷徹な覚悟を家中に示したのだ。

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