【広島藩政の夜明け】初代藩主・浅野長晟が築いた「42万石支配体制」の確立

政務を執る浅野長晟 人物伝

元和5年(1619年)8月、広島の歴史は大きな転換点を迎えました。

それまで安芸・備後の大名であった福島正則が、改易(領地没収)されます。

それによって、紀伊和歌山から浅野長晟(あさの ながあきら)が安芸・備後42万石を治める大名として広島に入国したのです。

長晟は、徳川家康の三女・振姫(ふりひめ)を正室に迎えていたため、「将軍家と血縁関係を持つ外様大名」という極めて特殊で重要な立場にありました。

当時の広島は、前領主の改易直後で領内が混乱していました。

長晟の最大の使命は、この広大な領地において、徳川の世にふさわしい強固で安定した支配体制を一刻も早く築き上げることでした。


権威の確立:家老成敗と新体制への移行

広島に入国した浅野長晟は、まず権威確立と家臣団の統制強化に着手しました。

  • 家老を成敗:長晟の父・長政の従兄弟にあたる重臣で、紀伊時代から軍令に背くなど不義が目立っていた家老の浅野知近を、元和5年(1619年)11月に城内で謀殺します。
  • 知行割から官僚制度へ:元和6年(1620年)の一般藩士への知行(給与)の明確化を経て、寛永18年(1641年)以降(※2代藩主光晟の時代)には、世襲の家老や新設された加判役、郡奉行を核とする官僚制度を導入し、藩の行政機構を抜本的に強化しました。

支配の骨格:農民を掌握した「郡中法度」と「郷村掟書」

長晟が重視したのは、藩の経済基盤となる農村の安定でした。

彼は戦乱の世から平和な時代へ移行するにあたり、百姓が土地に定着し、確実に年貢を納める体制を整備しました。

その核となったのが、以下の法度です。

  • 郡中法度(ぐんちゅうはっと)
  • 郷村掟書(ごうそんおきてがき)

これらの法度は、農民の生活全般から藩への義務までを細かく規定したものです。

領内の百姓は、武士の支配下に組み込まれました。

  • 農村支配を強める主な規定(一例)
    • 農民が耕作地から逃亡することを厳しく禁じ、土地への定着を義務付けた。
    • 福島時代から備蓄されていた米や雑穀(年貢・小物成)のうち郷蔵に貯蔵されている分について、明細を提出させた。
    • 刈り取り時期より前に作物を刈り取る行為を禁じ、年貢の取りこぼしを防いだ。
    • 無許可で竹や木を伐採することを禁じ、乱伐を防いだ。

これにより藩の財政は安定に向かい、42万石を支える確固たる経済基盤が確立されました。


短い生涯に残した文化的遺産

長晟の生涯は、47歳と比較的短いものでした。

しかし彼は政治・経済面だけでなく、後の広島を象徴する文化的遺産も残しています。

広島城の二の丸に、「和歌山」の風景を模した庭園を造営させました。

これが、現在も広島市民に愛される縮景園(しゅっけいえん)の原型です。

平和な時代への願いを込めたこの美しい庭園の存在は、長晟が藩の永続的な安寧を見据えていたことを示しているのです。


広島藩政の礎を築いた長晟

長晟が藩主として君臨した時期(1619年~1632年)は、広島藩にとって、その後の約250年間の支配体制のすべてが決定づけられた「夜明け」の時代でした。

長晟は、「徳川家の外戚」という強大な後ろ盾を最大限に活用して権威を確立し、緻密な法度によって領民を掌握しました。

その手腕により、浅野家は一度も改易されることなく明治維新まで広島藩を治め続けることができたのです。

広島藩の「42万石支配体制」は、浅野長晟の強い決断力と先見の明によって、その短い生涯の中でしっかりと築き上げられたものでした。

※この記事に掲載している画像はイメージです。実際の団体、個人、建物、商品などとは異なる場合があります。


侍のコメント
侍のコメント

入国早々に不忠の重臣を排除し、新体制の威厳を一気に示した。しかしその後の知行制度や法度こそが、真の評価点であろう。
一時的な武力に頼らず、法と役職をもって藩を治める手法は、近世大名として手本とすべきもの。

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