戦国時代、その圧倒的な武勇から「今義経(現代の源義経)」と絶賛された武将がいました。
その名は、相合元綱(あいおう もとつな)。
毛利元就の異母弟であり、毛利軍に欠かせない「矛」として家を支えた人物です。
しかし兄・元就に対して反旗を翻したことで、元就の手によって歴史の表舞台から葬られます。
なぜ兄と対立する道を選び、非業の死を遂げてしまったのか。
本記事では、輝かしい武勲から、壮絶な最期となった「相合殿事件」まで、その劇的な生涯を紐解きます。
「相合」と名乗った元就の異母弟:その出自

相合元綱は、父・毛利弘元の三男として生まれます。
生まれた年は不明。
※元就が生まれた明応6年(1497年)3月14日以降と推測されます
母は側室のため、庶子として扱われていました。
相合(現在の広島県安芸高田市吉田町相合)に拠点があったことから、「相合」と名乗ります。
次男の元就とは異母兄弟でした。
しかし、年も近く仲が良かったと言われています。
伝説の始まり:有田中井手の戦いと「今義経」の異名

元綱の名を一躍有名にしたのは、永正14年(1517年)に起こった「有田中井手の戦い(ありたなかいでのたたかい)」です。
敵軍を圧倒した驚異の武勇
この戦いで毛利家は、「今項羽」と謳われるほどの名将として知られた武田元繁と激突しました。
武田軍は総勢5千の兵力を持っていたのに対し、毛利・吉川連合軍は1千人程度。
圧倒的不利な状況の中、武田元繁を討ち取り、勝利を掴みます。
戦いの中で元綱は、自ら槍を振るい敵陣を突き破る華々しい活躍を見せたといいます。
その戦いぶりは、源平合戦で破竹の勢いを見せた源義経を彷彿とさせ、周囲から「今義経」と最大級の賛辞を贈られたのです。
毛利家を支える「武の象徴」
元就が知略で家を支える一方で、元綱はその武勇によって家臣団の士気を高める象徴的な存在でした。
当時の毛利家にとって、元綱は欠かせない「矛」であったと言えます。
なぜ元就に反旗を翻したのか?相合殿事件の真相

兄弟の絆は、長くは続きませんでした。
大永3年(1523年)7月15日、幼くして家督を継いでいた当主の幸松丸がわずか9歳で早世。
毛利家は当主不在という滅亡の危機に陥ります。
この混乱を収めるべく、幸松丸の後見役の元就が家臣団に推される形で、家督を継ぎました。
これにより混乱は収束し、毛利家は新たな一歩を踏み出したかに見えました。
ところが、大永4年(1524年)4月に事態は急転。
元綱が元就に対して謀反の計画を立てたことで、家中を二分する未曾有の事態が幕を開けたのです。
謀反の背景にある要因

なぜ、あれほど仲の良かった兄に対して反旗を翻したのか。
その決定的な動機は、今も歴史の謎に包まれています。
元綱自身の野心ではなく「周囲の情勢によって、引き返せない場所まで押し流された結果(不本意)」という説もあります。
- 尼子氏の調略: 毛利家の弱体化を狙う尼子氏が、元綱を当主に据えようとした。
※秀才である元就が当主となることは、避けたかった - 家臣団の分裂: 元綱を支持する勢力と、元就を支持する勢力の対立。
- 家督相続への不満: 毛利宗家の後継者問題に端を発する、一族内の権力闘争。
これらの要因が重なり、元綱は一部の家臣団に担ぎ上げられる形で、兄との対決姿勢を強めていくことになります。
元就の決断:悲劇の最期

元綱派の家臣たちは、尼子氏の重臣と通じるなど不穏な動きを見せ始めました。
間者から情報を得た元就は、謀反計画を察知。
4月8日、元綱と自らに敵対した家臣団に対して、非情かつ迅速な決断を下しました。
元綱派の家臣団を粛清。
そして家臣の志道広良に命じ兵を動かし、元綱の籠る居城・船山城を急襲します。
元就は元綱と仲が良かったため、これは「苦渋の決断」であったとも言われています。
源義経の再来が辿った結末
激戦の末、元綱は敗北。その生涯を閉じます。
「全身を無数の矢で射抜かれ、追い打ちをかけるように槍が突き立てられる」という壮絶な最期だったとされています。
「今義経」と謳われた猛将の最期は、奇しくも本家・源義経と同じく、兄との争いに敗れ、非業の死を遂げるという悲劇的なものでした。
この事件は「相合殿事件(あいおうどのじけん)」と呼ばれます。
相合元綱が歴史に残したもの
相合元綱の死によって、毛利家は毛利元就による一極集中体制を確立しました。
もし元綱が生存し兄弟が手を取り合っていれば、毛利家の歴史はまた違ったものになっていたかもしれません。
三子教訓状に秘められた贖罪

しかし元綱の死があったからこそ、元就は「一族の団結」の重要性を痛感。
後の「三子教訓状」に繋がったとも推測できます。
元就が三人の息子たちに書き残した、「三人で力を合わせ、毛利家を存続させること」を強く訴えた書状。
「三矢の訓」が生まれる元になったとされる。
元就が息子たちに遺した言葉が、あれほどまでに切実であった理由。
その背景には「弟を自らの手で葬った」という、生涯消えることのない深い後悔があったからではないでしょうか。
- 「一族が団結しなければ、家は敵に利用され滅びる」という教訓を得た
- 息子たちに団結を説くことが、亡き弟への贖罪
「自分のような悲劇を、息子たちに味わわせたくない」 その一心が、「毛利の絆」を形作ったのです。
雄弁な元就が唯一語らなかった出来事
少なくとも、相合殿事件は元就にとって「苦い経験」である可能性が高いでしょう。
元就は、自らの半生を長文の書状で饒舌に語る人物でした。
ところが、この事件については驚くほど口を閉ざしました。
その沈黙は、彼にとってこの事件が「語るに忍びない悲劇」であった証といえます。
毛利家中で周知の事実でありながら、事件についての史料はほとんど残されていません。
すなわち、元就は「この事件を歴史の闇に葬り去ろうとしていた」のかもしれません。
「今義経」と呼ばれた男の光と、彼を葬った兄の影。
毛利元就が築き上げた中国地方の覇権は、弟の命という礎の上に成り立っていたのです。

「今義経」と謳われしその勇姿、まさに乱世の華なれど、兄と刃を交える運命こそ戦国の無常。
仲睦まじき兄弟が引き裂かれし悲劇、それが後の「三子教訓状」の礎となったかと思えば、涙を禁じ得ぬ。




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