戦国時代、出雲国(現在の島根県東部)を本拠とした尼子氏は、山陰・山陽地方にまたがる大大名でした。
その最盛期を築いたのが、5代当主の尼子晴久(あまご はるひさ)です。
しかし晴久の生涯は、単なる栄光の歴史ではありませんでした。
彼の背後には、下克上によって尼子氏の礎を築いた偉大な祖父・尼子経久の影と、若くして父を失った運命的な重圧があったのです。
本記事では、晴久の壮絶な生涯を通し、中国地方の覇権を賭けた彼の執念と尼子氏の光と影の歴史を追います。
尼子氏の最盛期:8カ国の守護を兼任
晴久はわずか4歳の時、父・政久を戦で亡くしました。
このため早くから祖父・経久の後継者として育てられ、天文6年(1537年)に経久が隠居すると、24歳で家督を継ぎました。
家督を継いだ晴久は、経久の老獪な戦略とは異なり、血気盛んな武断政治を推進しました。
彼の目的は祖父の代からの基盤を固め、尼子氏を中国地方で揺るぎない天下人に押し上げることでした。
その積極策が実を結び、尼子氏はまさに最盛期を迎えます。
- 経済的な成功:戦国の軍資金として重要だった石見銀山を奪取するなど、経済基盤を強化しました。
- 勢力圏の拡大:当時の将軍・足利義輝より、出雲・隠岐のほか、因幡・伯耆・美作・備前・備中・備後を合わせた8カ国の守護職に任じられました。
これにより、尼子氏は中国地方随一の大大名となり、周辺の強国である大内氏と覇権を争う立場を確立しました。
毛利氏との激闘

晴久が家督を継いだ頃、毛利元就を当主とする安芸国(現在の広島県)の毛利氏が、頭角を現してきます。
毛利氏は元々尼子氏に服属していました。
しかし尼子氏による家督介入などで不信感を抱き、大内氏へと転属します。
これを受け、晴久は毛利氏討伐のため、天文9年(1540年)に毛利氏の本拠・吉田郡山城を攻撃します。
しかし、元就の知略と大内氏の援軍の前に大敗を喫し、この戦いを機に安芸国から手を引くことになりました(吉田郡山城の戦い)。
大内・毛利連合軍による第一次月山富田城攻防戦に勝利、石見銀山の奪還を目指す毛利氏を撃退するなど、両雄は激しく戦います。
8カ国太守の裏側:新宮党粛清

8カ国もの広大な領国を維持するためには、強力な中央集権と、家中の統制が必要でした。
晴久は外敵との戦いだけでなく、内側にも冷徹なメスを入れます。
特に知られているのが、一族内での粛清です。
尼子氏には、祖父・経久の次男である尼子国久を筆頭とする有力な分家「新宮党(しんぐうとう)」がありました。
新宮党は優れた武勇があったものの、勝手な振る舞いが目立ちました。
このため、晴久は家中の統制を乱す存在として警戒します。
最終的に、天文23年(1554年)、国久とその子である誠久を粛清。
これによって、統制の確立に成功しました。
同時に軍事力の大幅低下、新宮党に従ってきた国衆の不満を招くことにもなり、尼子氏衰退のきっかけの一つとなったと言えます。
突然の最期がもたらした、尼子氏の終焉

永禄3年(1560年)12月24日、47歳で病死という予期せぬ最期を迎えます。
中国地方の覇権争いが激化する激動の最中、この突然の死は家中の動揺を招きました。
そのわずか6年後の永禄9年(1566年)11月、嫡男・義久の代で毛利氏に降伏。
尼子氏は滅亡へと突き進むことになります。
晴久の死の報せを聞いた元就は、その死を惜しむ言葉を残したといいます。
「晴久も生前に我々との決着を望んでいたはずだ。我々も、吉田郡山城の戦い以来何度も戦いながら、直接本隊同士で勝負する機会がなかった。近いうちに出雲国へ攻め入り、積年の願いを晴らそうと考えていた矢先であり、本当に残念でならない。」
尼子晴久の光と影
| 光 | 影 |
| 8カ国守護を兼任し、尼子氏の最盛期を築いた。 | 毛利氏を勢いづけ、最大の敵を作り出した。 |
| 石見銀山を奪取し、経済力を飛躍的に高めた。 | 家中を脅かしかねない強大な一族(新宮党)を粛清した。 |
| 中央集権化に成功した。 | 新宮党粛清、急死により、衰退のきっかけを作った。 |
まとめ
8カ国を支配する大大名に上り詰めた尼子晴久の生涯は、まさに強大な祖父の重圧を乗り越えた「光」と、その光を維持するために非情な決断を下した「影」に彩られた、壮絶なドラマでした。
彼の急死という予期せぬ事態がなければ、尼子氏はさらなる隆盛を極めた可能性を秘めていました。
晴久は短期間で尼子氏の全盛期を築き上げた、紛れもない傑出した当主であったと言えます。

老獪な経久殿の跡を継ぎ、尼子氏の勢力を8カ国にまで広げた手腕は、称賛に値する。
惜しむらくは、この知略を尽くす戦をもう少し続けたかったことだ。




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