【尼子氏最大の悲劇】尼子晴久が「新宮党」を粛清した、権力闘争の真相

新宮党と対立する尼子晴久 戦い

戦国時代、出雲(現在の島根県)を拠点に中国地方に勢力を誇った尼子氏は、その隆盛の裏で一族内最大の悲劇を経験しました。

それは、当主・尼子晴久(あまご はるひさ)が、尼子軍の最強の牙であった血族集団「新宮党(しんぐうとう)」を自ら粛清した事件です。

なぜ晴久は、自家の柱石ともいうべき一族を粛清せねばならなかったのでしょうか?

本記事では、新宮党党首・尼子国久らの傲慢な振る舞いと、それに対抗した晴久の中央集権化の野望という「権力闘争」の真相に迫ります。


強大な一族「新宮党」とは?

尼子氏にとって、一族の強大な軍事力は隆盛の源でした。

その中でも別格の武力と勢威を誇っていたのが、「新宮党」と呼ばれる一族です。

新宮党は、当主・尼子晴久の祖父である尼子経久(あまご つねひさ)の弟、尼子久幸(あまご ひさゆき)を祖とする分家です。

尼子氏の本拠地である月山富田城の麓、新宮谷に屋敷を構えていたことから、この名で呼ばれました。

新宮党の党首であった尼子国久(あまご くにひさ)と、その子である尼子誠久(あまご さねひさ)は、外征において常に尼子軍の先鋒を務めています。

その武勇と統率力は、並ぶものがありませんでした。

尼子氏最強の矛

彼らの豪勇は尼子氏の勢力拡大に不可欠であり、軍事力の中核を担っていました。


権力の対立:当主・晴久と新宮党の確執

尼子晴久は、天文6年(1537年)に尼子氏の当主の座を継ぎました。

晴久は最大版図を築いた優秀な当主でした。

しかし彼の治世において、一族内の対立は深刻化していきました。

その対立の中心にいたのが、武力を背景に勢いを増す「新宮党」、特に党首の国久と誠久父子でした。

新宮党の勢力と行動は、当主である晴久の権力を脅かし始めていました。

具体的な確執の原因は、主に以下の点にあります。

  • 軍事力の専横: 新宮党は外征での功績を盾に、軍権を独占し、勝手な振る舞いが目立つようになっていました。
  • 傲慢な態度: 一族の勢威を誇り、本家の当主である晴久に対し、しばしば傲慢な態度を取り、当主の面目を潰すことがあったとされます。
  • 中央集権化の妨げ: 晴久は尼子氏の体制を強化し、当主の権力を絶対的なものにしようと考えていましたが、国久らの存在は、その中央集権化の大きな障壁となっていました。

晴久にとって国久父子は、「邪魔者」となりつつあったのです。


粛清の決行

天文23年(1554年)11月、晴久は国久・誠久父子の粛清を決行します。

  • 尼子国久: 城に呼び寄せ、登城途中で暗殺。
  • 尼子誠久: 新宮党の拠点を攻め、自害に追い込む。

諸刃の剣:尼子氏にもたらしたもの

この粛清は、尼子氏にとって致命的な打撃ともなりました。

  • 武力の中核喪失: 尼子氏の誇る最大の武力集団を失ったことで、軍事力が大幅に低下しました。
  • 国衆の不満: 新宮党に従ってきた国衆の間で、不満が表面化しました。

晴久は中央集権化に成功しました。

しかし、それは自らの牙を抜く行為でもあったのです。

さらに、新宮党粛清から間もない永禄3年(1560年)12月24日、晴久は47歳で急死。

この後、尼子氏は急速に衰退していきます。

新宮党の粛清は、尼子氏が勢いを失い、後に毛利元就によって滅亡へと追い込まれる最大の悲劇的な転換点となったのです。


侍のコメント
侍のコメント

有力な一族の排除は、短期的な権力強化にはなれど、家中の結束と信頼を失うに等しい。
晴久殿は、尼子氏の両翼を自ら断ってしまったのだ。その結果、武力も求心力も低下した。

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