戦国時代、一度滅亡した出雲国の名門・尼子氏。
その「再興」という夢を一身に背負い、僧侶から戦国大名へと数奇な運命を辿った人物が尼子勝久(あまご かつひさ)です。
稀代の忠臣・山中鹿介(やまなか しかのすけ)たちに支えられ、毛利氏という巨大な壁に挑んだ生涯を辿ります。
尼子勝久の出自と平穏な寺での修行時代

天文22年(1553年)、尼子経久の嫡孫である尼子誠久の五男として生まれました。
しかし、生後まもない天文23年(1554年)に起きた家督を巡る一族内の対立(新宮党の粛清)により、父と兄たちが殺害されるという悲劇に見舞われます。
幼少だった勝久は家臣の手によって救い出され、京都の東福寺で出家。
仏門の世界で、静かな日々を送っていました。
このまま歴史の表舞台に現れることはないはずでした。
宿命の再会:尼子旧臣による擁立

永禄9年(1566年)11月、毛利氏によって尼子氏の居城・月山富田城が陥落。
尼子氏は一度滅亡します。
しかし主家再興を誓う山中鹿介らは、寺で修行に励んでいた勝久の存在を探し当てます。
僧侶から「尼子氏当主」へ
彼らは勝久に対し、尼子の血を絶やさぬよう、還俗して再興軍の旗印となることを懇願します。
出家して僧侶になった者が、修行をやめて俗世間の生活(一般人)に戻ること。
当初勝久は、これを固辞していました。
しかし彼らの熱意に打たれ、ついに尼子氏再興のために生きる決意を固めます。
尼子再興軍の躍進と挫折

勝久を擁立した尼子再興軍は、永禄12年(1569年)6月に隠岐諸島から出雲へ上陸し、挙兵します。
出雲奪還への挑戦
かつての遺臣や領民の支持を集めた再興軍は、またたく間に出雲の大部分を制圧します。
7月には、月山富田城を包囲する勢いを見せました。
ところが毛利氏が送り込んだ精鋭部隊の反撃を受け、布部山の戦いで大敗。
勝久らは一度、京都へと撤退を余儀なくされます。
天正2年(1574年)、山名豊国の支援を受けて因幡より再び出雲侵攻を図りますが、これも失敗に終わります。
織田氏との提携:上月城への入城

再起をかける尼子再興軍は、当時勢力を拡大していた織田氏に接近します。
織田氏の羽柴秀吉の中国地方攻略軍に組み込まれることで、毛利氏に対抗する後ろ盾を得たのです。
天正5年(1577年)、再興軍は秀吉が落とした上月城に入城。
ここを再興軍の拠点と定めました。
上月城は、播磨・美作・備前の三国が接する国境地帯の最前線に位置していました。
そのため織田氏と毛利氏が対峙した戦線において、きわめて重要な軍事拠点でした。
尼子再興軍の構成
尼子再興軍は、以下のような勢力で構成されていました。
- 尼子勝久(総大将:尼子氏の正当な血統の象徴)
- 山中鹿介(実務・軍事の支柱)
- 立原久綱(外交・戦略の補佐)
- 各地から集結した尼子遺臣団
悲劇の最期:上月城の落日
天正6年(1578年)4月、毛利氏は大軍を率いて上月城を包囲しました。
勝久たちは秀吉の救援を待ちます。
しかし織田信長は、秀吉に別所長治の反乱への対処を優先するよう命じました。
そのため秀吉は十分な兵力を割けず、上月城救援を断念します。
この判断は、事実上「尼子再興軍を見捨てる」ことを意味し、彼らにとっては極めて非情な結末となりました。
孤立無援となった上月城の中で、勝久たちは覚悟を決めます。
尼子勝久の自害と尼子氏の終焉

毛利側から「勝久の自害と引き換えに城兵の命を救う」という条件が提示されました。
7月、勝久は家臣たちの命を守るためこれを受け入れ、兄の尼子氏久や嫡男の豊若丸らと共に自害しました。
享年26。
ここに、尼子氏再興の夢は完全に潰えたのです。
鹿介も囚われの身となります。
しかし、護送される途上で暗殺されました。
※暗殺された理由はわかっていません
再びの反乱を恐れた毛利輝元が命じた、あるいは家臣が無断で実行したとされています。
尼子勝久が歴史に残したもの
尼子勝久の生涯は、自身の野心ではなく、周囲の期待と名門の血筋という宿命に殉じたものでした。
僧侶として生きる道を捨ててまで戦場に身を投じたその背景には、旧臣との絆と執念がありました。
今日でも上月城跡には勝久を祀る石碑が立ち、時代に翻弄されながらも気高く散った「悲劇の貴公子」の物語を伝えています。

仏門の静寂を捨て、主家再興という修羅の道へと進んだその御覚悟、胸に迫るものがあった。
最後まで家臣を想い、身を賭して皆を救われたその仁徳、誠に天晴れである。



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