【厳島の戦いの真相】桂元澄が陶晴賢を騙した「偽の内応書」とは?

書状を書く桂元澄 戦い

戦国時代の三大奇襲戦の一つに数えられる「厳島の戦い」。

この戦いは、毛利元就が、中国地方の覇者であった大内氏の重臣・陶晴賢(すえ はるかた)を打ち破ったことで知られています。

この劇的な勝利の裏側には、武力だけではない、巧妙な「情報戦」がありました。

今回は、毛利家の家臣である桂元澄(かつら もとずみ)が、どのようにして陶晴賢を騙し、勝利を決定づけたのか。

その鍵となる「偽の書簡」に隠された真相を解き明かします。


なぜ、陶晴賢は厳島に渡ったのか?

天文24年(1555年)9月、晴賢は毛利家の宮尾城を攻めるため、厳島に2万の大軍を上陸させます。

止めるべきと主張する家臣もいる中、なぜ陶晴賢はわざわざ海を渡り、厳島という狭い場所での戦いを選んだのでしょうか。

その理由は、元就が仕掛けた周到な罠と、それを実行した桂元澄の偽計にありました。

「偽の書簡」に隠された巧妙な罠

開戦前、元就は元澄に密命を下します。

それは、「偽の内応書」を陶晴賢のもとに送ることでした。

書簡には、「開戦後に陶軍に寝返り、吉田郡山城(毛利家の本拠地)を攻める」という内容が記されていました。

なぜ陶晴賢は騙された?

元澄の父・広澄は、かつて元就の弟を担いで謀反を企てた中心人物の坂広秀の一族でした。
広秀らが粛清された際、広澄は責任を取って自害しています。
こうした背景から、晴賢は「元澄は、父の仇である元就を恨んでいる」と思い込み、深く信用してしまったのです。

さらに元就は、「厳島を攻められると勝てない」という嘘の情報も流すなど、陶晴賢が厳島を侵攻するように、徹底した誘導作戦を仕掛けました。


勝利を決定づけた「情報戦」の力

こうした策が見事に功を奏し、晴賢は厳島へ誘い出されました。

毛利軍は嵐の夜に海を渡り、背後から奇襲をかけます。

海上からも攻撃を受け退路を断たれた陶軍は総崩れとなり、大敗を喫し、晴賢は自害へと追い込まれました。

元澄が成功させた「偽の書簡」は、単なる情報操作ではありませんでした。
それは、敵将の心理を読み解き、わずかな隙を突いて勝利を掴み取る、元就の巧みな戦略を象徴するものです。

厳島の戦いは、「武」だけでなく「知」がいかに重要であったかを現代に伝える、歴史的な一戦なのです。


侍のコメント
侍のコメント

元澄殿の計略、まことに見事なれど、晴賢殿の慢心もまた、敗因であろう。
武士の戦は、力だけでは勝てぬ。知略を巡らせ敵の心をも読むこと、これこそが真の武士の道。

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