【七難八苦の結末】上月城の戦い:山中鹿介たちが見た「最後の夢」と、織田信長の非情な決断

上月城の戦い 戦い

山中幸盛(通称・山中鹿介-やまなか しかのすけ)は、戦国時代において「山陰の麒麟児」と呼ばれ、戦国一の忠義者として名高い武将です。

彼の生涯は、主家である「尼子(あまご)氏の再興」というただ一つの目的に捧げられました。

尼子氏が毛利氏に滅ぼされた後、鹿介は「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという伝承があります。

これは、「苦難を乗り越えて主家を再興させる」という彼の強い決意を示すものでした。

鹿介ら尼子遺臣は、尼子一族の生き残りである尼子勝久(あまご かつひさ)を擁立し、毛利氏との戦いに身を投じます。

そして、この再興への夢がまさに潰えることになったのが「上月城の戦い(こうづきじょうのたたかい)」でした。


尼子再興軍、織田氏の傘下へ

永禄12年(1569年)4月、毛利氏は大友氏との戦いのために九州へ出兵。

山陰が手薄になった隙をつき、尼子再興軍は兵を挙げました。

しかし毛利氏との激闘の末、二度の尼子再興運動は失敗に終わります。

そこで鹿介は、強大な毛利氏に対抗する後ろ盾を得るため、織田氏を頼りました。

織田信長に謁見した鹿介は、その才能と人柄を認められて信任を得ます。

その後尼子軍は織田氏の傘下に入り、尼子家再興を目指すこととなったのです。

尼子再興軍、上月城へ入城

天正5年(1577年)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉は、毛利氏の勢力圏である播磨国へと侵攻を開始します。

天正6年(1578年)1月、秀吉が播磨国西部にあった上月城を毛利方から奪取します。

この城は尼子再興軍に与えられ、彼らはここを本拠地と定めます。

上月城は、毛利領への玄関口にあたる戦略的に重要な拠点であり、鹿介らにとっては尼子氏再興への「足がかり」となるはずでした。

この城に入ったとき、彼らはついに長年の悲願が叶う「最後の夢」を見たに違いありません。


絶望の籠城戦:毛利の大軍と兵糧攻め

上月城奪取の報を聞いた毛利氏は、即座に反撃に出ます。

4月、毛利氏の両川、吉川元春と小早川隆景が率いる3万余りの大軍が上月城を取り囲みました。

城を守る尼子軍はわずか3千人ほどであり、圧倒的な兵力差の中で絶望的な籠城戦が始まりました。

  • 毛利軍による城の完全包囲
  • 兵糧や水の補給路の遮断

城内の食糧や水は枯渇し、尼子軍は次第に追い詰められていきます。

織田信長の非情な決断

この窮地に際し、総大将である秀吉は上月城の救援に向かいます。

しかしこの時の信長は、織田方から毛利方に離反した別所長治が籠もる「三木城の攻略」を最重要事項としていました。

毛利の大軍と正面からぶつかり、大きな犠牲を払ってまで上月城を救援することは、織田氏の中国攻め全体の戦略から見れば得策ではないと判断されたのです。

そのため秀吉は十分な兵力を割けず、上月城救援を断念。

この判断は、事実上「尼子再興軍を見捨てる」という、彼らにとって極めて非情な結末を意味しました。

「徹底抗戦」を選んだ尼子再興軍

この時秀吉は、尼子軍に上月城から脱出するよう説得。
しかし彼らはこれに応じず、徹底抗戦を選んだといいます。


尼子氏と鹿介の最期

秀吉軍の撤退により、孤立無援となった上月城に救援が来る望みは完全に絶たれます。

7月1日、尼子軍は降伏を決意しました。

尼子勝久は一族とともに自決し、ついに尼子再興の夢は潰えました。

鹿介は毛利方によって捕らえられ、備中(現在の岡山県西部)へ護送されることとなります。

鹿介の最期

毛利氏は、「山陰の麒麟児」の再度の逃亡と反乱を恐れました。
護送の途上で鹿介は謀殺され、忠義の生涯に幕を閉じます。

上月城での敗戦をもって、尼子氏は完全に滅亡しました。
しかし鹿介の七難八苦を乗り越え、最後まで主君のために尽くした生き様は、戦国時代における「忠義」の象徴として、後世まで語り継がれることとなります。


侍のコメント
侍のコメント

上月城での籠城は、志の最後の輝きであったが、夢は露と消えた。
大義に殉じた鹿介殿の壮絶な最期、後世の我らも深く胸に刻むべきであろう。

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