安芸の小豪族から中国地方全域を支配する大大名へと飛躍した、毛利氏。
その躍進の立役者である毛利元就は、もともと毛利氏の当主ではありませんでした。
元就が家督を継ぐきっかけとなったのが、わずか9歳でこの世を去った当主・幸松丸(こうまつまる)の存在です。
短すぎるその生涯は、家中に未曽有の危機をもたらすと同時に、元就を歴史の表舞台へと押し上げる決定的な転機となりました。
この記事では、毛利氏の運命を左右した、幼き当主・幸松丸の生涯とその背景に迫ります。
幼くして家督を継いだ毛利家の当主

幸松丸は、元就の兄で毛利氏第10代当主である父・興元(おきもと)の嫡男として生まれました。
※元就にとっては甥にあたります
しかし、興元は24歳という若さで病死してしまいます。
彼には幸松丸しか後継者がいなかったため、永正13年(1516年)8月25日、わずか2歳の幸松丸が家督を継ぐことになりました。
幼い幸松丸に代わって叔父の元就が、後見役として家政を執り行います。
幸松丸の死と家督争い

幸松丸は、家督を継いでから7年後の大永3年(1523年)7月15日、わずか9歳という短い生涯を終えます。
この幼い当主の突然の死は、毛利家に最大の危機をもたらしました。
元就が跡を継いだものの、元就の異母弟・相合元綱を擁立しようとする家臣たちが謀反を企てます。
それを知った元就は、元綱と関与した家臣を粛清することで、内紛を鎮圧しました。
死因を巡る説
幸松丸の死因に関しては、病死であったというのが通説です。
戦で討ち取られた敵の首を見る「首実検」に立ち会った際、その光景に衝撃を受け、体調を崩し亡くなったという伝説が残されています。
※合戦のしきたりのため、嫌がったが参加させられた
幸松丸の死が毛利家にもたらしたもの
短命に終わった幸松丸の存在は、結果的に毛利氏の運命を大きく左右しました。
幸松丸の死によって、毛利元就が家督を継承することになります。
この家督継承は、元就が後に中国地方の覇者となる、まさしく出発点となりました。
毛利氏の当主・幸松丸は、幼くして亡くなってしまいました。
しかし彼の死が、毛利元就という稀代の知将を本格的に歴史の表舞台に立たせ、毛利氏を安芸の一豪族から戦国大名へと押し上げる決定的な契機となったのです。

2歳で家督を継ぎ、9歳での早世とは、あまりにも悲運な生涯。そしてこの死は、毛利家に最大の危機をもたらした。
されど、この危機こそが、元就殿が当主となる天の計らいであったかもしれぬ。


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