慶長5年(1600年)8月、関ヶ原の戦いが近づく中、西軍の総大将であった毛利輝元は、戦いの混乱に乗じて伊予国(現在の愛媛県)への侵攻を画策します。
伊予国は、東軍の有力大名である加藤嘉明(かとう よしあき)が治めていました。
この伊予国攻めの中心を担ったのが、毛利氏の信頼厚い能島村上水軍の頭領、村上元吉(むらかみ もとよし)でした。
9月17日、元吉は毛利氏の支援を受け、伊予へと動きました。
目標は、伊予の主要拠点の一つである松前城(まさきじょう)。
約2千5百の将兵を指揮し、松山市の玄関口である三津浜へ上陸した元吉の進撃は、四国の勢力図を塗り替えんとする果敢な一歩でした。
※三津浜(みつはま-現在の松山市三津浜地区)
数に勝る毛利軍は、嘉明が関ヶ原本戦に向かい不在のため勝利を確信していました。
しかしこの油断こそが、悲劇的な結末を招くことになります。
奇襲の成功:加藤方の「策略」

毛利勢は、松前城の明け渡しを要求します。
それに対して、加藤方の加藤嘉明の弟・忠明、足立重信、佃十成(つくだ かずなり)らは策を練ります。
まず、「城兵が少ないので、妻子を安全に退避させる時間を与えられれば開城する」と偽りの降伏を申し入れました。
さらに油断させるため、酒やごちそうを野営中の毛利勢に贈り、酒宴を開かせます。
そして9月18日、毛利勢が警戒を解いて油断しきった深夜から未明にかけ、十成は約2百の兵を率いて奇襲攻撃を仕掛けました。
佃隊は、夜陰に乗じて毛利勢の周辺一帯に火を放ち、広範囲にわたって大混乱を引き起こしました。
毛利勢は激戦の末、敗北を喫します。
この敗戦により、毛利氏の伊予国攻めは失敗に終わりました。
数に勝る毛利軍が敗北した要因

圧倒的な兵力差があったにもかかわらず、毛利軍が大敗を喫した背景には、いくつかの要因が指摘されています。
- 水軍の限界: 村上水軍は海上戦では無類の強さを誇りましたが、この戦いは陸地に上陸して野営中の出来事でした。水軍兵は陸での夜間戦闘に慣れておらず、急な奇襲に適切に対応できませんでした。
- 油断: 毛利勢は、加藤嘉明が関ヶ原本戦に向かうため、伊予には残存兵しかいないと過信していました。さらに降伏の申し出を受け、祝宴まで開いたことで警戒心が緩み、夜間の警備が手薄になっていたと考えられます。
- 有力武将の討死: 戦いの最中、村上元吉、曽根景房(そね かげふさ)が十成によって討ち取られてしまいます。大きな損害を受けた毛利勢は、指揮系統が完全に麻痺し、総崩れとなって敗走を余儀なくされました。
まとめ
毛利氏は関ヶ原の戦いの裏で、四国侵攻を進めていました。
しかし勝利を確信、さらに酒宴を開き「油断」したこと、そして加藤方が仕掛けた「偽装降伏」という巧妙な計略に陥りました。
水軍兵が慣れない陸上での夜襲に不意を突かれ、さらに村上元吉をはじめとした有力な武将が討死したことで指揮系統が麻痺。
これによって、数に勝る毛利勢は大敗を喫しました。
この敗戦は、毛利氏の戦略を頓挫させた、油断が招いた悲劇的な結末と言えます。

加藤方の計略は、戦国の冷徹な智謀を示しておる。
その結果、毛利軍の戦略は崩れたのだ。


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