人物伝

【戦国の雄・毛利元就の祖先】大江広元と「毛利家誕生」のドラマ

戦国時代、中国地方の覇者として名を轟かせた毛利元就(もうり もとなり)。「謀神」とも称された彼の類まれなる智略は、一体どこから受け継がれたのでしょうか?そのルーツを遡ると、鎌倉幕府の創設期に源頼朝を支えたブレーン、大江広元(おおえ の ひろ...
庭園

【縮景園の知られざる初期の姿】茶人・上田宗箇が築いた「泉水屋敷」の原点

広島市の中心部にあり、四季折々の美しい風景で人々を魅了する縮景園(しゅっけいえん)。国の名勝にも指定される大名庭園です。現在見られる優雅な姿は、長い歴史の中で何度も手が加えられた結果です。その原点には、初代広島藩主・浅野長晟(あさの ながあ...
人物伝

【毛利元就の哲学】「謀多きは勝ち、少なきは負ける」の真意と孫子の兵法との深い関係

安芸の小豪族から中国地方全域を支配する大大名へと飛躍した戦国武将、毛利元就。彼の強さの根源は、徹底した知略と謀略にありました。元就の哲学を象徴するのが、次の言葉です。「謀(はかりごと)多きは勝ち、少なきは負ける」これは、「騙し討ちが多い方が...
戦い

【尼子氏最大の悲劇】尼子晴久が「新宮党」を粛清した、権力闘争の真相

戦国時代、出雲(現在の島根県)を拠点に中国地方に勢力を誇った尼子氏は、その隆盛の裏で一族内最大の悲劇を経験しました。それは、当主・尼子晴久(あまご はるひさ)が、尼子軍の最強の牙であった血族集団「新宮党(しんぐうとう)」を自ら粛清した事件で...
戦い

【三津浜夜襲】油断と策略が生んだ悲劇:数に勝る毛利軍が敗れた要因

慶長5年(1600年)8月、関ヶ原の戦いが近づく中、西軍の総大将であった毛利輝元は、戦いの混乱に乗じて伊予国(現在の愛媛県)への侵攻を画策します。伊予国は、東軍の有力大名である加藤嘉明(かとう よしあき)が治めていました。この伊予国攻めの中...
人物伝

【海の要衝】瀬戸内の血潮:能島村上水軍頭領・村上元吉が毛利氏に捧げた船団

戦国時代、瀬戸内海の制海権を握ることは、中国地方の覇権を握ることに等しい意味を持ちました。この海域で圧倒的な力を持っていたのが、村上水軍です。村上元吉(むらかみ もとよし)は、村上水軍の三家の中の能島村上水軍(のしまむらかみすいぐん)の頭領...
戦い

【伝説の始まり】謀略の原点:毛利元就が「最小の犠牲」で鏡山城を落とした計略の全貌

「謀神(ぼうしん)」と呼ばれ恐れられた戦国大名、毛利元就(もうり もとなり)。彼の謀将としての名声を決定づけた初期の戦いこそが、大永3年(1523年)6月に起きた鏡山城の戦い(かがみやまじょうのたたかい)です。この一戦が、彼の運命、ひいては...
人物伝

【上田宗箇流の流祖】戦場と茶室を往還した生涯:武人・上田重安が「宗箇」となるまで

戦国の世が終わりを告げる頃、ある一人の武将が、血生臭い戦場と静謐な茶室という、対極の道を極めました。彼こそが、茶道上田宗箇流の祖、上田宗箇(うえだそうこ)こと上田重安(うえだ しげやす)です。武士の魂を茶に込めた重安は、いかにして独自の武家...
人物伝

【宿敵に仕えた外交僧】安国寺恵瓊の数奇な生涯:武田遺児から毛利の「守り神」へ

安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)は、僧侶でありながら戦国大名に仕え、外交官として天下を奔走した異色の人物です。恵瓊の生涯は、主家・毛利氏の存亡と深く結びついていました。特に毛利元就の死後、若き当主を支える「守り神」のような役割を果たします。...
人物伝

「毛利両川」とは何か?元就の壮大な家族戦略と仕組みを徹底解説

戦国時代の名将、毛利元就は「稀代の謀略家」として知られています。彼の最大の知略は戦場ではなく、「家」を永続させるための仕組み作りにありました。その結晶こそが、「毛利両川(もうりりょうせん)」です。これは、元就の二人の息子を、毛利家と深い関わ...