【縮景園の知られざる初期の姿】茶人・上田宗箇が築いた「泉水屋敷」の原点

縮景園 庭園

広島市の中心部にあり、四季折々の美しい風景で人々を魅了する縮景園(しゅっけいえん)

国の名勝にも指定される大名庭園です。

現在見られる優雅な姿は、長い歴史の中で何度も手が加えられた結果です。

その原点には、初代広島藩主・浅野長晟(あさの ながあきら)と、一人の武将茶人の存在がありました。

今回は、現在の「縮景園」と呼ばれる以前の、「泉水屋敷(せんすいやしき)」と呼ばれた初期の姿に迫ります。


藩主・浅野長晟の入封と作庭者・上田宗箇

縮景園の歴史は、浅野氏が広島に入封した翌年の元和6年(1620年)に始まります。

長晟は、自身の別邸(泉邸-せんてい)の庭園として、この地の築造を命じました。

その作庭を託されたのが、家老であり、武将茶人としても名高い上田宗箇(うえだ そうこ)でした。

宗箇は、千利休の高弟であると同時に、戦場での経験を持つ武将でもありました。

この彼の二面性が、初期の庭園の姿に大きく影響を与えたと言われています。

宗箇が手がけた当時の庭園は、「泉水屋敷」または「泉邸」と呼ばれていました。

初期の「泉水屋敷」は質実剛健な武将の庭

現在、縮景園のシンボルとなっているアーチ状の美しい石橋「跨虹橋(ここうきょう)」は、初期の庭にはありませんでした。

宗箇が作庭した当時の「泉水屋敷」は、現在の優雅な庭園とは趣が異なり、彼の武将らしい素朴で力強い景観が特徴でした。

その後、複数回の大改修を経て、景観が大きく変化することになります。

園内の一部には、現在も宗箇の原案が残されている場所もあると言われています。


「縮景園」という名前の由来

「泉水屋敷」が「縮景園」と呼ばれるようになったのは、2代藩主・浅野光晟(あさの みつあきら)の時代です。

光晟が儒学者の林羅山(はやし らざん)に庭園の詩を求めた際、羅山が詠んだ詩の序文に由来します。

その序文の一節が、「海山をその地に縮め風景をこの楼に聚む」でした。

「海や山といった大自然の景勝をその地に縮め、美しい風景をこの楼に集める」という意味が込められていました。
ここから「縮景園」という名前が付けられたと伝えられています。

縮景園は、長い歴史の中で姿を変えてきましたが、その出発点には武将茶人・上田宗箇の明確な美意識がありました。
築庭の背景にある藩主や作庭者の思い、そして名付け親の存在を知ると、いつもの庭園散策が、より一層深みのあるものになるはずです。

※この記事に掲載している画像はイメージです。実際の団体、個人、建物、商品などとは異なる場合があります。

縮景園
住所:〒730-0014 広島市中区上幟町2-11
公式HP:https://shukkeien.jp/


侍のコメント
侍のコメント

宗箇殿は、茶人にして武人。
その初期の庭が、後に優雅なる姿へと変わる前の、質実剛健たる趣であったとは、まさに武士の心意気が反映されたものと推察致す。

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