【陶晴賢の悲劇】なぜ主君を討ったのか?「大寧寺の変」に隠された生涯の闇

兵を率いる陶晴賢 人物伝

戦国時代、中国地方の雄である大内氏は、陶晴賢(すえはるかた)という一人の家臣によって滅亡に追い込まれました。

主君である大内義隆(おおうち よしたか)を討ち、自らが大内家の実権を握った事件は、「大寧寺の変(たいねいじのへん)」として歴史に刻まれています。

「西国無双の侍大将」とまで称された晴賢は、なぜ自らの手で主家を滅ぼすという決断を下したのでしょうか?

その背景には、武断派である晴賢と、文治派へ傾倒する主君・義隆との深い対立がありました。


主君・義隆を魅了した美しき寵臣

大永元年(1521年)11月14日、陶晴賢は大内氏の家臣・問田興之の子として生を受けました。

その後、大内氏の重臣である陶興房の養子となったとされています。

若き日の晴賢は類まれなる美貌の持ち主として知られ、主君・大内義隆から深い寵愛を受けました。

元服の際には義隆の偏諱を受けて、隆房(たかふさ)と名乗ります。

偏諱(へんき)とは

大名や将軍などの高貴な人物の実名の一字を、臣下や家臣がもらい受け、自身の名前に用いること。


義隆との関係悪化

隆房は大内家の中でも随一の武勇を誇り、数々の戦功を挙げていました。

義隆からの信頼も厚く、大内家の内政と軍事を任されるほどの重臣でした。

しかしその強さゆえに、次第に義隆との間に亀裂が生じていきます。

義隆は尼子家との戦い(第一次月山富田城の戦い)で敗れ、その戦いの中で嫡男・晴持を亡くしたことで、軍事への意欲を失います。

その後は京都の文化や学問を重んじるようになり、公家のような生活を送ることを好むようになります。

方針の相違

これに対し隆房は武家としての誇りを重んじ、義隆の行動を「惰弱」と捉え、強い不満を抱くようになりました。


謀反:「大寧寺の変」

義隆と隆房の関係は、悪化の一途をたどります。

  • 文治派の台頭: 義隆は、文治派の相良武任(さがら たけとう)を重用し、武断派の隆房の意見を退けることが多くなりました。
  • 隆房と武任の対立: 隆房が武任の暗殺を企てるなど両者は対立。身の危険を感じた武任は、自分の娘を隆房の嫡男に嫁がせて関係修復を図りました。しかし隆房はこれを拒み、対立は解消されませんでした。

天文20年(1551年)1月、武任は隆房との対立に関して自らも義隆から責任を問われることを恐れ、「相良武任申状」を義隆に提出します。

この書状の中で武任は、隆房が謀反を企てていると訴えるとともに、両者の対立の責任は杉重矩にあると讒言しました。

これにより、文治派を支持する義隆と武断派の隆房との対立は、もはや決定的なものとなります。

挙兵:大寧寺に散った大内義隆

8月、ついに隆房は兵を挙げ、山口へと侵攻を開始。

隆房が率いる精鋭は、5千から1万。

これを知った義隆は法泉寺へ向かい、防戦態勢を整えます。

しかし、勝敗は戦う前に決していました。

隆房が事前に徹底した根回しを行っていたため、義隆のもとに駆けつけた重臣は、冷泉隆豊ら極わずか。

兵力も2千~3千に留まり逃亡兵が相次ぐなど、軍としての機能は喪失していました。

もはや山口を維持することは叶わず、義隆は山口を放棄。

最終的に大寧寺へと逃れます。

追いすがる陶軍は、義隆が逃げ込んだ大寧寺を包囲。

逃げ場を失った義隆は、自害に追い込まれました。

この際に武任も城を攻め落とされ、自害しています。

この一件で隆房は、主君を討った逆臣として知れ渡ります。

大内氏の実権掌握:傀儡当主の擁立

主君を討った後、新たな大内家の当主として、義隆の養子だった大友宗麟の弟・大友晴英を擁立。

これにより、大内氏の実権を握りました。

「陶隆房」から「陶晴賢」へ

この際に晴英から偏諱を受け、隆房から晴賢へと改めています。
※室町幕府将軍・足利義晴から偏諱を受けたという説もあります


毛利元就との対立:防芸引分

後に中国地方の覇者となる毛利元就は、当初大内氏に服属していました。

大寧寺の変に際しては晴賢の謀反に同調し、晴賢からの協力要請を受けて行動しています。

吉田郡山城の恩義

天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦いでは、陶晴賢が援軍として駆けつけ元就を救っていました。
この出来事を通じて、両者の間には強い信頼関係が築かれたとされています。

しかし元就と晴賢の間に、確執が生まれ始めます。

この頃、安芸・備後・石見にまたがる広大な勢力圏を築き上げた毛利氏はもはや一介の国衆ではなく、大内氏の存立を左右する巨大な存在となっていました。

この力関係の変化が、かつての盟友を「政敵」へと変えていきます。

周辺の国衆にも強い影響力を及ぼす存在となっており、大内氏の傘下にありながらも、晴賢は毛利氏を警戒するようになります。

吉見正頼の反乱と毛利氏の離反

天文22年(1553年)、晴賢は自らに反発して兵を挙げた石見の国衆・吉見正頼を討つため、元就に参陣を要求します。

しかしこれに対して元就の嫡男・毛利隆元が強く反対し、毛利氏は出陣を見送ることとなりました。

  • 義理の父への恩: 隆元にとって、晴賢に討たれた大内義隆は人質時代に自分を厚遇してくれた「恩人」でした。
  • 晴賢への不信: 隆元は書状の中で、謀反を起こした晴賢を「悪人」と激しく糾弾しました。

毛利氏が動かなかったことで、安芸国衆たちも出陣を見合わせます。

憤った晴賢は、安芸国衆の盟主である元就を通さず、直接国衆たちに出陣を催促するという行動に出ます。

これは「安芸・備後の国人領主を統率する権限を元就に与える」という、これまでの約束に反するものでした。

この一件を受け、元就は晴賢との対決を決意します。

天文23年(1554年)5月11日、元就は大内氏(陶氏)からの離反を正式に宣言

これがいわゆる「防芸引分(ぼうげいひきわけ)」です。

元就は直ちに行動を開始し、安芸国内にあった大内方の拠点を次々と電撃的に攻略。

西国の覇権を巡る、毛利と陶の全面戦争が幕を開けました。


悲劇的な結末:厳島の戦い

晴賢は、毛利氏討伐に向けて動き出します。

重臣の宮川房長を派遣し、天文23年(1554年)に折敷畑の戦いで陶軍と交戦。

しかしこの戦いで房長は戦死。陶軍は敗北を喫することになります。

この戦いは、後に起こる「厳島の戦い」の前哨戦とも呼ばれます。

最終的には自ら大軍を率いて厳島へ渡り、決戦に臨みます。

天文24年(1555年)10月1日、毛利氏の周到な奇襲を受け、陶軍は総崩れ。

逃げ場を失った晴賢は自害に追い込まれ、戦国史に残る悲劇的な最期を迎えることとなりました。

大内・陶氏の終焉:毛利氏による防長経略

晴賢の死後、大内氏は急速に衰退していきました。

この状況を好機と見た元就は、大内攻めに踏み切ります。

大寧寺の変からわずか6年後の弘治3年(1557年)、大内氏は毛利氏によって滅ぼされました。

晴賢の子も一人残らず命を落としたことで、陶氏の嫡流も完全に途絶えました。

陶晴賢の生涯は、家臣が主家を滅ぼし自らも滅びるという、戦国時代の悲劇的な物語を象徴しているのかもしれません。


侍のコメント
侍のコメント

主君が惰弱となり武家の道から外れれば、家臣として忠義を貫くことは難しい。
だが主君を討つという道を選んだ以上、いずれは自らもまた滅びる定め。

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