【生涯不敗】なぜ「西国無双」と呼ばれたのか? 立花宗茂、武勇と忠義の生涯

甲冑を着た立花宗茂 人物伝

「西国無双(さいごくむそう)」――この異名を持つ戦国武将、立花宗茂(たちばな むねしげ)

豊臣秀吉や徳川家康に称賛された彼は、なぜそこまで評価されたのでしょうか?

関ヶ原の戦いで西軍につき、改易(領地没収)の憂き目に遭いながらも、大名として返り咲いた、その波乱に満ちた生涯を紐解きます。


なぜ「西国無双」と呼ばれたのか?

立花宗茂がこの称号を得た最大の理由は、その驚異的な強さにあります。

彼は生涯で数々の戦に臨みましたが、一度も敗れることはありませんでした

彼の武勇を示す有名なエピソードをいくつかご紹介します。

  • 立花山城の攻防: 宗茂が初めて名を挙げた戦いです。わずか18歳で、大友氏の家臣として、島津氏の大軍を相手に、立花山城を守り抜きました。この戦いで見せた知略と勇猛さは、多くの武将を驚かせました。
  • 文禄・慶長の役: 豊臣秀吉の朝鮮出兵においても、宗茂は抜群の働きを見せました。特に、碧蹄館の戦い(へきていかんのたたかい)では、明の大軍を相手に寡兵で奮戦し、その武勇は敵将からも高く評価されました。
  • 関ヶ原の戦い: 西軍に味方した宗茂は、東軍の京極高次の籠る大津城を攻め落としました。本戦には間に合いませんでしたが、その戦功は目覚ましく、家康も「西国無双の勇将」としてその実力を認めていたと言われています。

宗茂の強さは、単に武力だけではありません。

常に冷静沈着であり、優れた知略で敵の裏をかきました。

その巧みな戦術と、家臣からの厚い信頼が、彼の「不敗」の武勇を支えていたのです。


強さの根源:「鬼道雪」の教え

彼の強さの根源は、一体どこにあったのでしょうか?

その答えは、彼の養父である「立花道雪の教え」にありました。

宗茂は道雪の薫陶を受け、武勇だけでなく、優れた知略と人を惹きつける人間性を身につけていったのです。

立花道雪(たちばな どうせつ)とは

大友氏の重臣。
雷を斬ったという伝説や、生涯37度の戦いで無敗だったことから「雷神」「鬼道雪」と恐れられた名将です。

道雪には男子がおらず、後継者に悩んでいました。

そんな彼が才能を見出したのが、高橋紹運(たかはし じょううん)の息子であった宗茂でした。

道雪は宗茂の聡明さと勇猛さを見抜き、彼を養子に迎える決断をします。

この養子縁組は、宗茂の人生にとって、そして立花家の未来にとって、大きな転機となりました。

道雪は宗茂に、武将として、人としてのあり方を厳しく、そして愛情をもって教え込みました。
彼の教えは宗茂の血肉となり、後の活躍の礎を築いたのです。


改易、浪人生活〜前代未聞の旧領復帰劇

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に加わった宗茂は、敗戦の結果、改易され領地を失い、浪人となりました。

彼は徳川家康から破格の恩賞を提示され、東軍につくように誘われていました。
しかし、旧主である豊臣家への義を貫きました。

宗茂の忠義の姿勢や人柄は、多くの人々から高く評価されました。

幕府は、宗茂のような才能を埋もれさせることを惜しみ、彼を大名として再興させます。

慶長11年(1606年)に徳川秀忠の御伽衆に加えられ、陸奥国棚倉に一万石を与えられて大名として復帰。

大坂の陣などの重要な局面で、徳川方の一員として活躍しました。

それらの功績が認められ、元和6年(1620年)に、筑後柳川(現在の福岡県柳川市)の領地を再び与えられます(十万九千二百石)。

これにより、旧領に復帰を果たしたのです。

関ヶ原の戦いに西軍として参戦し、改易された後に旧領に復帰を果たした、唯一の大名となりました。

この波乱万丈な人生は、宗茂が義を重んじ、人々に慕われる優れた人物であったことを示しています。

彼の忠義と才覚は、時代を超えて多くの人々の心を惹きつけています。


まとめ

宗茂が「西国無双」と呼ばれたのは、数々の戦で不敗を誇った武勇、そして主君への義を貫いた忠義の心があったからです。

彼の生涯は、才能があっても時代の流れに翻弄される厳しさ、そして、それでもなお自分の信念を貫くことの重要性を教えてくれます。

立花宗茂の物語は、武勇と忠義、そして人間的な魅力が詰まった、まさしく「西国無双」の生き様と言えるでしょう。


侍のコメント
侍のコメント

師の教えを忠実に守り、それを己のものとしたからこそ、生涯不敗の強さを得たのであろう。
武士の道は、ただ戦に勝つことではない。義を重んじ、主君に尽くす心。
宗茂殿の生き様こそ、武士の鑑と言えよう。

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