戦国時代初期、安芸国(あきのくに-現在の広島県西部)には、後の大国・毛利氏を危機に陥れた強力な勢力がありました。
それが代々安芸国の守護を務めた安芸武田氏であり、その全盛期を築いた当主が、武田元繁(たけだ もとしげ)です。
彼は「項羽(こう う-秦を滅ぼした中国の猛将)」に例えられるほどの武勇を誇り、毛利元就が初めて対峙した強敵としても知られています。
本記事では、元繁の強さと、その本拠地・佐東銀山城(さとうかなやまじょう)を中心とした安芸での覇権、そして悲劇的な最期が歴史に与えた影響を解説します。
外交戦略の転換
応仁元年(1467年)に生まれたとされる元繁は、永正2年(1505年)に家督を継ぎます。
永正5年(1508年)に、一族の宗家である若狭武田氏から独立する動きを見せ、安芸国内での領国支配の確立を推し進めました。
さらに永正12年(1515年)には、服属していた大内氏から離反。
同時に尼子氏と手を結ぶという、大胆な外交戦略に打って出ました。
この戦略的転換は、当時大内氏の傘下にあった毛利氏を含む安芸の国人領主たちに大きな緊張をもたらしました。
元繁は尼子氏の力を後ろ盾に、安芸における毛利氏や吉川氏といった親大内派の勢力を一掃し、安芸の覇権を確立しようと行動を開始します。
佐東銀山城を拠点に

元繁は天然の要害である「佐東銀山城」を本拠地とし、安芸国の中心地である広島湾周辺に広大な勢力を築きました。
この城は防御力の高さに加え、交通の要衝を押さえる、戦略的価値が非常に高いものでした。
「今項羽」:安芸武田氏の最盛期を築いた猛将

元繁の武勇は飛び抜けており、その猛々しさは味方からも恐れられるほどでした。
大内氏から離反した後、驚異的な猛攻を展開します。
- 河内城を攻め、取得(城兵が逃亡した)
- 己斐城を力攻めで落とす
- 難攻不落で知られる水晶城を落とす
- 桜尾城を陥落寸前にまで追い込む(武田方の有田城を奪われたことで撤退)
彼の武勇は、楚漢戦争で知られた「項羽」に並ぶと評され、その強さは安芸国に並ぶ者がないと言われました。
この時期の安芸武田氏は、大内氏(山口)と尼子氏(出雲)という二大勢力に挟まれていました。
しかし元繁の強力なリーダーシップと武勇によって、その勢力を最大級にまで高めました。
有田中井手の戦い:悲劇的な最期

元繁の生涯最大の出来事は、毛利元就の初陣として知られる「有田中井手の戦い(ありたなかいでのたたかい)」です。
永正14年(1517年)2月、元繁は毛利・吉川方に奪われた有田城を奪還するため、総勢5千人の軍を率いて出陣しました。
これに対し毛利・吉川連合軍は、わずか1千人程度の兵を率いて対峙。
武田軍の勝利は確実と見られていました。
しかし、戦いは劇的な結末を迎えます。
- 武田元繁の討死:元繁が士気を高めるべく最前線に出て指揮を執った際、毛利軍の放った矢に当たり討死してしまうという、予期せぬ事態が発生。
- 武勇が招いた敗北:元繁の死により武田軍は総崩れとなり、撤退します。
この敗戦が安芸武田氏の衰退を決定づけるきっかけとなり、後の毛利元就の台頭への道を開くことになります。
武田元繁の武勇は、疑いようのないものでした。
しかし将たる者として自ら危険に身を晒す「猪突猛進さ」が、安芸武田氏の運命を左右することになったのです。
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「今項羽」と謳われた武勇はまことに凄まじいが、その猪突猛進さが命取りとなったか。
元繁殿の討死が安芸武田氏の衰退を早め、毛利の世を呼んだのは、戦国の非情な運命というものだ。


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