天文9年(1540年)、中国地方の覇権は、山陰の尼子氏と山陽・北九州を支配する大内氏によって争われていました。
同年、尼子晴久が安芸国の毛利氏の本拠・吉田郡山城を大軍で攻めます。
しかし毛利元就の知略と大内氏の援軍により大敗を喫し、安芸から撤退しました(吉田郡山城の戦い)。
尼子氏が安芸遠征に失敗した結果、安芸・備後の国衆たちは、それまで尼子氏に従っていた者までもが次々と尼子氏を離れ、大内氏側につく者が相次ぎました。
さらに、尼子氏の礎を築いた晴久の偉大な祖父・経久が没したことも重なり、尼子氏は危機的状況に陥ったのです。
天文11年(1542年)1月、この状況を絶好の好機と判断した大内義隆は、尼子氏の本拠地である出雲国(現在の島根県東部)への出兵を決めました。
こうして、大内氏とその傘下にあった毛利元就や国衆による連合軍は、出雲国への大規模な遠征を敢行します。
この遠征こそが、後の大内氏の運命を左右する「第一次月山富田城の戦い(だいいちじがっさんとだじょうのたたかい)」へと発展したのです。
尼子氏の牙城「月山富田城」の圧倒的な防御力

連合軍が目指したのは、尼子氏の居城であり「難攻不落」として知られる月山富田城でした。
この城が力攻めを許さない要因は、その地理と構造にあります。
- 天然の要害: 城は標高約190メートルの月山全体を利用した山城であり、四方を急峻な斜面と、堀の役割を果たす川や沼沢地に囲まれていました。
- 多重の防御構造: 山麓から山頂に至るまで、複数の曲輪や堀切が何重にも配置されており、一つの郭を破っても、次々と防御線が現れるようになっていました。
尼子軍1万5千に対し、連合軍は4万ともいわれる大軍で城を攻めます。
しかしこの天然の要害と堅固な守備を前に苦戦し、戦いは長期化します。
連合軍大敗の決定的な要因

この「長期戦を強いられたこと」こそが、連合軍大敗の最大の原因となりました。
敗北の主な要因は以下の通りです。
- 兵站の破綻: 尼子軍によるゲリラ戦により、兵站が度々攻撃されたため、補給物資の確保に苦しむこととなりました。
※兵站(へいたん-人員・兵器・食糧などの補給路) - 国衆の寝返り: 長引く戦いに不満を募らせていた一部の国衆が、尼子方に寝返り始めました。
天文12年(1543年)5月、連合軍は戦況の不利を悟り、全軍撤退を決定します。
決死の撤退戦:毛利軍の殿と大内氏の悲劇

撤退戦において、尼子軍の激しい追撃により、大内・毛利連合軍は壊滅的な被害を受けます。
毛利元就は、殿を務めるという最も危険な役割を引き受けました。
※殿(しんがり-退却の際に最後尾で、敵の追い討ちを防ぐ部隊)
彼は、忠臣たちの自らの命を犠牲にするほどの献身的な働きによって、九死に一生を得ます。
この時、元就と嫡男の隆元は「自害を覚悟した」と言われています。
この戦いは元就にとって、知略が及ばぬほどの「最大の窮地」の一つとして記憶されています。
大内軍では、義隆が寵愛していた子・晴持が、海路で退却する途中に舟が転覆し溺死するという悲劇に見舞われました。
※戦死したという説もあります
この事件が決定的な転機となり、義隆は軍事への意欲を失ってしまいました。
その結果大内氏は衰退の一途をたどり、後に重臣による謀反(大寧寺の変)を招き、最終的に滅亡へと繋がることになります。
一方、防衛戦に勝利し危機的状況から脱した尼子氏は、勢力を盛り返しました。
大寧寺の変後、晴久は将軍から8カ国の守護職に任じられ、尼子氏は最盛期を迎えます。
第一次月山富田城の戦いは、大内氏の没落と尼子氏の隆盛を決定づける、中国地方の歴史における重要な転換点となりました。
この後、中国の勢力図は大きく変わり、毛利氏と尼子氏は直接対決へと向かいます。

天は、我らを見捨てられなかったようだ。自害すら覚悟したが、九死に一生を得た。
吉田郡山での勝利に驕り、無謀な力攻めに与してしまったのが、最大の誤算であった。



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