渡辺通(わたなべ とおる)は、毛利元就が、まだ安芸の一大名に過ぎなかった時代に、その勢力拡大を支えた屈指の猛将です。
彼の生涯で特筆すべきは、その圧倒的な武勇と、敵対一族の出身でありながら元就に許され、その寵臣となったという劇的な背景でしょう。
この記事では、通が戦場で見せた具体的な武功と、「鈴槍通(すずやりとおる)」という異名の由来に迫り、彼がなぜ毛利家中において「戦場の猛者」として語り継がれたのかを紐解きます。
敵対一族の遺児、帰参
渡辺氏の家系は、鎌倉時代から代々毛利氏に仕えてきた重臣でした。
しかし、通の父・渡辺勝(わたなべ すぐる)は、元就が家督を継いだ後、元就の異母弟の相合元綱を新たな当主として擁立しようする企てに関わりました。
この企てが露見したことで、渡辺一族の大半が処刑されるという悲劇に見舞われました。
通は備後の国人・山内直通(やまのうち なおみち)を頼って逃亡し、命を拾います。
その後、直通のとりなしにより、通は毛利氏への復帰を許されました。
「鈴槍通」の由来:槍術に秀でた武の才能

通は優れた武力、とりわけ槍術に秀でたことで知られています。
彼は、授かった鈴を愛用の槍に付けて戦場で敵を打ち破ったことから、「鈴槍通」の異名で呼ばれるようになりました。
この異名は、彼の非凡な膂力と槍術の腕前、そして戦場での派手な活躍ぶりを、後世にまで伝える証となっています。
決定的な武功:首注文の筆頭に記された栄誉

通の武名は、毛利氏が生き残りを懸けた主要な合戦を通じて、揺るぎないものとなりました。
特に彼がその武功を歴史に刻んだのが、毛利元就が尼子氏と激しく争っていた時期の戦いです。
吉田郡山城の戦い(1540年~1541年)
尼子晴久の大軍が毛利氏の本拠地・吉田郡山城を包囲したこの戦いにおいて、通は奮戦しました。
- 天文9年(1540年)の鎗分(やりわけ)の戦いや青山の戦いに参戦し、敵兵の首級を挙げる武功を立てています。
- 尼子軍への攻撃(1541年)
通の武功を決定づけたのは、この時期に行われた尼子軍への攻撃での働きでした。
この時、通が討ち取った敵兵の首級は、毛利氏と同盟関係にあった大内氏に提出された首注文において、筆頭に記載されています。
首注文(くびちゅうもん-討ち取った首級を記した目録)
この事実は、通の武功が毛利家中での評価に留まらず、大内氏という当時の中国地方の最大勢力からも一目置かれるほど卓越していたことを示しています。
壮絶な最期

天文11年(1542年)、大内・毛利連合軍が尼子氏の居城・月山富田城を攻めた戦い(第一次月山富田城の戦い)は敗北に終わりました。
通は、この戦いで戦死します。
毛利軍が殿を務めた撤退の最中、「元就の甲冑を身に纏い、身代わりとなって壮絶な討ち死にを遂げた」という伝説も残されています。
元就はこの時、自害をも覚悟するほどの窮地に追い込まれます。
しかし通をはじめとする忠臣たちの、命を犠牲にするほどの献身的な働きによって、危機を脱することができました。
後世の評価

武将としての生涯は短いものでしたが、彼の残した功績は計り知れません。
彼の劇的な入臣と、それに続く戦場での活躍は、元就の「武士の才能を重んじる」という姿勢を家中に示すことにもなりました。
そして、その武勇は江戸時代の長州藩においても「家臣の誉れ」として語り継がれました。
寛保2年(1742年)には、通の子孫である萩藩士・渡辺悠により、彼の200年忌供養として功徳碑(こうとくひ)が萩の常念寺に建立されました。
この功徳碑は、通の武功が毛利家臣団の模範として、後の時代まで不朽の価値を持っていたことを証明しているのです。
渡辺通は、敵対者から毛利氏の猛将へと転身し、鈴の音とともに戦場を駆け抜けたことで、毛利家における英雄譚の一翼を担いました。
彼の武勇は、毛利氏が戦国の乱世を勝ち抜く上で、不可欠な光であったと言えるでしょう。
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父の罪を背負いながら、己の命と武をもって元就公に報いた忠臣の鑑と言えよう。
月山富田城での殿の働き、壮烈にして名誉。




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