戦国の世、日本海を席巻し、時の天下人をも動かした海の男がいました。
その名は九鬼嘉隆(くき よしたか)。
「海賊」でありながらも織田信長や豊臣秀吉に重用され、水軍を率いて数々の合戦を勝利に導いた人物です。
本記事では、九鬼嘉隆がなぜ海賊大名と呼ばれるようになったのか、その波乱の生涯と九鬼水軍の圧倒的な強さに迫ります。
九鬼嘉隆とは?海賊から大名への道のり
天文11年(1542年)、志摩国(現在の三重県志摩半島)の土豪である九鬼氏に生まれました。
九鬼氏は海の治安維持や物流を担う一方で、時には戦闘集団としても活動するいわゆる「海賊衆」のルーツを持っていました。
若き日の嘉隆は、地元の北畠氏との勢力争いに敗れ、一時没落するなど苦難の時期を経験します。
しかしその卓越した操船技術や海戦の才能を見出され、やがて日本の歴史を大きく動かす織田信長と運命的な出会いを果たすのです。
九鬼嘉隆の躍進:織田信長との出会い

桶狭間の戦い(1560年)の後、嘉隆は織田氏の重臣である滝川一益の仲介によって、織田信長に仕えることになったとされています。
信長の配下に入った嘉隆は、その卓越した水軍力でメキメキと頭角を現していきました。
- 水軍を率いて北畠氏の支城を攻め落とす
- 伊勢長島の一向一揆を鎮圧する際、海上からの射撃などで織田軍を援護
このように水軍の将として、織田家中で次々と実績を挙げていきます。
当時の海戦では、敵船に近づいて乗り込み刀や槍で戦う「白兵戦」が主流でした。
嘉隆は、そのような海戦の常識や戦術を根本から覆していくことになります。
九鬼嘉隆の名を轟かせた「木津川口の戦い」
九鬼嘉隆を語る上で欠かせないのが、海上で織田水軍と毛利水軍が激突した「木津川口の戦い(きづがわぐちのたたかい)」です。
この海戦での大活躍こそが嘉隆の名を天下にとどろかせ、後世に名を残す決定的なきっかけとなりました。
第一次木津川口の戦い:織田水軍、大敗

天正4年(1576年)、織田氏は本願寺の拠点である石山本願寺を包囲し、兵糧攻めを行っていました。
物資や兵糧の補給に困窮した本願寺は、毛利氏に救援要請します。
7月、救援要請に応じた毛利氏は、瀬戸内海の制海権を握る村上水軍を味方につけた「毛利水軍」を派遣し、補給路の確保を図ります。
その結果、海上で織田水軍と毛利水軍が激突することになります。
最強と謳われていた毛利水軍の卓越した操船技術や焙烙火矢の威力の前に、織田水軍は壊滅的な大敗を喫しました。
この海戦は「第一次木津川口の戦い」と呼ばれます。
火薬を詰めた陶器の玉を敵船に投げつけて炎上させるという、当時としては画期的な兵器。
※現代でいう「手榴弾」や「焼夷弾」のようなもの。
織田水軍の船を次々と焼き討ちし、壊滅的な打撃を与えました。
第一次の戦いにおいて、九鬼嘉隆が参戦していたかどうかは定かではありません。
現時点では、参加していなかったとする説が有力視されています。
第二次木津川口の戦い:「鉄甲船」の伝説的勝利

手痛い敗北を喫した織田信長は、陸の常識が通用しない海戦の恐ろしさとその重要性を痛感。
その雪辱を果たすべく、九鬼嘉隆を呼び寄せました。
嘉隆の進言を受けた信長は、彼に命じてそれまでの常識を覆す新たな軍船の建造を始めさせます。
そうして生まれたのが、日本初と言われる船体を鉄板で覆った革新的な軍船「鉄甲船(てっこうせん)」でした。
初戦から2年後の天正6年(1578年)11月、再び木津川口で毛利水軍と織田水軍が激突します。
嘉隆が率いた鉄甲船の圧倒的な防御力と大筒による攻撃力の前には、毛利水軍の焙烙火矢も全く通用しませんでした。
織田水軍は歴史的な大勝利を収めます。
この海戦は「第二次木津川口の戦い」と呼ばれます。
この功績を契機に、志摩の小さな一勢力にすぎなかった九鬼氏は大きな転換点を迎えます。
志摩国7島および摂津国野田・福島での7千石加増を得た嘉隆は、志摩・伊勢の計3万5千石を治める大名へと上り詰めました。
「海賊大名」としての揺るぎない地位を築いたのです。
嘉隆の家督相続
嘉隆は次男として生まれたため、当初は九鬼氏の家督を継いでいませんでした。
当時は嫡男である兄の浄隆が家督を継ぎ、その死後は浄隆の子である澄隆へと受け継がれていました。
しかし木津川口の戦いの後、織田信長は嘉隆による志摩国の領有を認め、九鬼氏の家督を澄隆から継ぐよう取り計らいました。
これによって嘉隆が九鬼氏の実権を握り、澄隆死後の天正12年(1584年)に家督を継ぐことになりました。
一説によると、信長が亡くなった後の天正11年(1583年)に、嘉隆が甥である澄隆を討って家督を奪ったとも伝えられています。
豊臣秀吉の時代:海賊大名の変わらぬ強さ

天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が非業の死を遂げると、その次男である織田信雄に仕えました。
天正12年(1584年)3月には「小牧・長久手の戦い」が勃発し、信雄と羽柴秀吉が対立することになります。
その最中、かつての仲介者である滝川一益の誘いを受けて羽柴秀吉の陣営へと鞍替えしました。
羽柴陣営に加わった後、蟹江城の戦いや小田原征伐、さらに文禄の役などに参陣します。
羽柴陣営へと移り変わってもなお、嘉隆は水軍の将として第一線で活躍し続けたのです。
鳥羽城の築城、そして隠居へ
天正13年(1585年)、従五位下・大隅守に叙位・任官。
その後、志摩国答志郡鳥羽(現在の三重県鳥羽市)に本拠を定め、鳥羽城の築城に着手します。
そして慶長2年(1597年)には家督を息子の守隆(もりたか)に譲り、隠居生活に入ることになります。
茶の湯を愛した「文武両道」の海賊大名
九鬼嘉隆は海賊の大将として、荒々しい人物のイメージが強いかもしれません。
しかし茶道にも造詣が深く、しばしば茶会に参加し、自身でも茶会を催していました。
このように、高い教養も併せ持つ「文武両道」の人物だったそうです。
九鬼水軍が恐れられた理由
九鬼水軍が恐れられた背景には、以下のような明確な強みがあったためです。
- 鉄甲船をはじめとする高度な造船技術と、それを運用する優れた戦術眼
- 当時戦国最強と謳われていた村上水軍を擁する、毛利水軍を破った
- 信長や秀吉といった天下人から絶大な信頼を得ていた組織力
「時代の最先端を行く軍事組織として機能していた点」が、九鬼水軍の最大の強みでした。
関ヶ原の戦い:海賊大名の最期
秀吉亡きあとの慶長5年(1600年)、天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが勃発。
この事態に対して嘉隆は西軍、守隆は東軍に分かれて属することになります。
これは「どちらが敗北しても九鬼家の血筋と家名を存続させるため」の、嘉隆による戦略であったともいわれています。
父子の決裂と鳥羽城の攻防

守隆は東軍総大将である徳川家康に従い、会津征伐へと出陣します。
その隙を突き、嘉隆は守備の薄くなっていた鳥羽城を奪還しました。
さらに伊勢湾の海上封鎖を行い、8月の安濃津城の戦いにおける西軍の勝利にも大きく貢献。
父の西軍加担を知った守隆は驚き、下野小山から志摩へ戻って城の明け渡しを申し入れました。
しかし、嘉隆はこれを拒絶します。
やむなく守隆は、国府村から安乗(三重県志摩市阿児町安乗)へと陣を移します。
ここに、父子が刃を交える戦いが始まることになったのです。
間に合わなかった助命:悲劇の切腹

9月15日の本戦で、西軍は敗北を喫します。
それを知った嘉隆は鳥羽城を放棄し、答志島へと逃れることになりました。
守隆は、徳川家康と直接会見して父・嘉隆の助命を嘆願。
自らの合戦での功績の大きさが考慮され、助命が認められます。
守隆は嘉隆のもとへ、許しの知らせを急いで走らせました。
ところがその使者が到着するよりも早く、九鬼氏の行く末を案じた家臣・豊田五郎右衛門が、独断で嘉隆に切腹を促してしまいます。
嘉隆はこれを受け入れ、10月12日に答志島の洞仙庵で自害して果てます。
享年59、海に生きた男の波乱の生涯でした。
嘉隆の首級は首実検(討ちとった敵方の首の確認)のため、家康のいる伏見城へ送られました。
その途中、守隆は父の助命が間に合わなかったことを知ります。
激怒した守隆は、独断で切腹を強いた五郎右衛門を「鋸挽き(のこぎりびき)」という極刑の末に斬首しました。
胴塚と首塚:二か所に眠る九鬼嘉隆
伏見城での実検を終えた首級は、再び答志島へと送り返されました。
これによって、嘉隆の遺体は胴体と首が別々に葬られることになります。
洞仙庵の近くには守隆によって「胴塚」が建てられ、首級は築上の山頂に葬られて「首塚」が建てられました。
海に生き、天下人の興亡に翻弄され続けた海賊大名の最期は、こうして悲劇的な親子の一幕とともに幕を閉じたのです。
まとめ:波乱を生き抜いた海賊大名・九鬼嘉隆の軌跡
九鬼嘉隆の生涯は海賊衆というルーツを武器に、戦国の変遷期を文字通り「波に乗って」駆け抜けたドラマの連続でした。
- 革新の海戦: 鉄甲船の導入により毛利水軍を破り、海の常識を塗り替える
- 世渡り術: 時代の潮流を読み、羽柴秀吉に鞍替え
- 文武両道: 荒々しい海軍の将でありながら、茶の湯を愛する風雅な教養人
- 家名存続の算段: 関ヶ原での親子分離の戦略
天下人から信頼され、最後は数奇な運命に翻弄された嘉隆。
その魂が眠る答志島の首塚・胴塚は、今も海賊大名の圧倒的な存在感を物語っています。

海賊から大名まで這い上がった執念、見事の一言に尽きる。
なれど最期、家を想う算段が家臣の勇み足に散るとは、武門の数奇は非情よな。


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