【関ヶ原で最強】“笹の才蔵”と呼ばれた男、可児才蔵の破天荒な武功

人物解説

戦国時代には、大名として天下を競った者たちとは別に、その武勇だけで歴史に名を刻んだ男たちがいました。可児吉長(通称・可児才蔵-かに さいぞう)もまた、その一人です。

彼は関ヶ原の戦いで、その比類なき武勇を天下に知らしめ、「笹の才蔵」の異名で後世に語り継がれることになります。今回は、可児才蔵が関ヶ原で成し遂げた、破天荒な武功に迫ります。


「笹の才蔵」の異名が生まれた日

可児才蔵の「笹の才蔵」という異名は、関ヶ原の戦いで生まれました。その由来には、いくつかの説があります。

一つは、討ち取った敵兵の首に、目印として笹の葉を差していったというもの。彼の武勇は凄まじく、戦場には笹の葉がまるで雪のように散らばっていたと伝えられています。もう一つは、彼の指物(さしもの)が笹の葉をモチーフにしたものだった、という説です。

いずれにせよ、「笹」というユニークなキーワードが、彼の圧倒的な武功を象徴し、彼の名を後世に残すことになりました。

東軍最強!一番槍を争った武勇

関ヶ原の戦い、可児才蔵は東軍の福島正則隊に属していました。福島隊は東軍の先陣として最前線で戦い、可児才蔵はそこで獅子奮迅の活躍を見せます。

彼は、福島隊の一番槍(最初に敵に突入し、手柄を立てること)を争うほどの勢いで戦場を駆け抜け、次々と敵を討ち取りました。その武功は凄まじく、関ヶ原の戦いで東軍の中で最も多くの首級を挙げた、という伝説が残されているほどです。

彼の武勇は、最後の主君である福島正則だけでなく、徳川家康も高く評価したと言われています。


「武功こそすべて」の生き様

可児才蔵の生涯は、単なる武勇伝だけではありません。彼は、自分の武功を最大限に活かせる場所を求め、何度も主君を変えました。

その生き様は、現代の私たちの価値観とは異なるものですが、彼にとっては「武功を立てることこそが武士の務め」という、揺るぎない信念に基づいたものでした。

彼の破天荒な生涯を物語るエピソードの一つに、羽柴秀次との決別があります。長久手の戦いの陣で、主君の羽柴秀次が敗走した際、徒歩で逃げていたところ、馬に乗った才蔵に会う。秀次は馬を貸すように命じるが、才蔵は「雨降りに傘を貸す者などおらぬ」と言い放ち、そのまま走り去った。

可児才蔵が歴史に名を残した理由は、武勇だけでなく、その強烈な個性にもありました。

  • 関ヶ原で「笹の才蔵」の異名を得た。
  • 東軍で最も多くの首級を挙げたという伝説が残る。
  • 「武功こそすべて」という信念で、主君を転々とした。

可児才蔵は、大名ではない一介の武士でありながら、その卓越した武勇と信念を貫いた生き様によって、戦国の世を象徴する存在となったのです。彼の物語は、私たちに「己の道を貫くこと」の重要性を教えてくれます。


侍のコメント
侍のコメント

武士たるもの、武功こそ第一。才蔵殿は、まさにその道を極められたお方。
天下分け目の大戦にて、己の武勇を存分に発揮し、「笹の才蔵」の武名を轟かされた。
主君を転々としたとて、才蔵殿の生き様は、まごうことなき武士の鑑。

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