戦国時代は陸上での戦いが主でしたが、海の上でも天下を左右する激しい戦いが繰り広げられました。その代表的なものが、織田信長と毛利氏・石山本願寺との間で起きた「木津川口の戦い」です。この戦いは、一度ではなく二度にわたって行われ、それぞれに異なる結末を迎えました。
今回は、最強と謳われた毛利水軍と、織田信長の革新的な戦略がぶつかり合った二つの戦いの違いと、勝敗を分けたポイントを分かりやすく解説します。
第一次木津川口の戦い:毛利水軍の圧倒的勝利

天正4年(1576年)、織田信長は本願寺の拠点である石山本願寺を包囲し、兵糧攻めを行っていました。しかし、瀬戸内海の制海権を握る毛利氏は、毛利輝元の命を受けた村上武吉率いる村上水軍を派遣し、本願寺への補給路を確保しようとします。
この戦いでの毛利水軍の強さは、以下の3つのポイントにありました。
- 卓越した操船技術: 瀬戸内海の複雑な潮流を知り尽くした村上水軍は、高速の小船を巧みに操り、織田水軍の大型船を翻弄しました。
- 「焙烙火矢(ほうろくひや)」の威力: 火薬を詰めた陶器の玉を相手の船に投げつけ、炎上させるという、当時としては画期的な兵器でした。これにより、織田水軍の船を次々と焼き討ちし、壊滅的な打撃を与えました。
- 圧倒的な兵力差: 毛利水軍が600〜800艘という大船団で挑んだのに対し、織田水軍は300艘程度しかなく、兵力面でも圧倒していました。
結果、織田水軍はなすすべなく敗北。毛利水軍は無事に本願寺へ物資を運び入れることに成功し、信長は大きな屈辱を味わいました。
第二次木津川口の戦い:信長の逆転勝利

第一次での大敗を経験した信長は、陸の常識が通用しない海戦の重要性を痛感します。彼は、九鬼嘉隆(くきよしたか)に命じ、それまでの常識を覆す新たな軍船の建造を命じました。
これが、鉄板で覆われた革新的な軍船「鉄甲船(てっこうせん)」です。
天正6年(1578年)、再び木津川口で毛利水軍と織田水軍が激突します。この戦いでの勝敗を分けたのは、以下のポイントでした。
- 「鉄甲船」の登場: 第一次で猛威を振るった毛利水軍の焙烙火矢は、鉄甲船には全く通用しませんでした。鉄板で覆われた船は火矢を弾き、まるで動く要塞のようでした。
- 大砲による一方的な攻撃: 鉄甲船には、当時としては珍しい大砲が搭載されていたと言われています。焙烙火矢が効かない毛利水軍に対し、鉄甲船は遠距離から一方的に攻撃を仕掛け、毛利軍を混乱させました。
結果、毛利水軍は鉄甲船という未知の兵器を前に敗北。織田信長は海上での覇権を確立し、石山本願寺への補給路を完全に封鎖することに成功しました。この勝利は、その後の石山合戦の終結を決定づける重要な一歩となったのです。

第一次は、わしらの焙烙火矢が火を吹いて、陸の武士どもをこてんぱんにしてやった!
だが、第二次の「鉄甲船」とやらには、さすがのわしらも歯が立たなかった。
陸の武士の頭も、たまにはたいしたもんじゃ。
悔しいが、あれが天下の潮流というやつかもしれんな。
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