戦国時代、中国地方の覇者となった毛利元就は、その勢力拡大の過程で、ある強力な「海賊」集団の力を借りていました。それが、瀬戸内海を根拠地とする村上水軍です。特に、その一翼を担った来島村上氏の当主、村上通康は、毛利氏の天下取りに不可欠な存在でした。
本記事では、毛利家にとっての村上水軍の役割と、村上通康の生涯をたどり、両者の深い関係性を紐解いていきます。
海の覇者、村上水軍
「村上水軍」とひと口に言っても、実際には瀬戸内海の制海権を握っていた能島・因島・来島の三つの村上氏の総称でした。彼らは単なる海賊ではなく、通行料を徴収したり、海上警備を行ったりと、海の流通を支配する海上傭兵集団でした。
それぞれの村上氏は、以下のような特徴を持っていました。
- 能島村上氏:村上武吉を当主とし、最強の武闘派として知られた。
- 因島村上氏:村上吉充を当主とし、毛利氏との関係が最も緊密だった。
- 来島村上氏:村上通康を当主とし、河野氏の家臣でありながら、毛利氏に協力した。
彼ら水軍の力は、陸の戦を左右するほど絶大でした。食料や兵の輸送はもちろん、敵方の城を海から攻める水上戦では、その真価が発揮されました。
厳島の戦いと村上通康の決断

毛利元就が天下に名を轟かせた「厳島の戦い」は、まさに村上水軍の力が勝利の鍵を握った戦いでした。当時、元就は中国地方の雄である陶晴賢と対立しており、厳島に上陸した陶軍に対して、元就は少ない兵力で戦わざるを得ない状況でした。
ここで元就が頼ったのが、村上水軍でした。特に、来島村上氏の当主であった村上通康は、毛利氏の誘いに応じ、陶軍への奇襲攻撃に加わることを決断します。この決断の背景には、河野氏との関係や、毛利氏の勢力拡大を見据えた通康の戦略的な判断がありました。
村上水軍は、夜間に厳島に上陸。海から陶軍を奇襲し、陸から攻める毛利軍と呼応することで、大軍を誇る陶軍を壊滅させました。この勝利により、毛利元就は中国地方の覇者としての地位を確立しました。この戦いがなければ、毛利家の歴史は大きく変わっていたでしょう。
毛利氏と築いた協力関係、そしてその最期
毛利氏と来島村上氏の協力関係は、長くは続きませんでした。
1567年に通康は病に倒れ、49歳でこの世を去ってしまいます。彼の死後、来島村上氏の家督は息子・通総が継ぎました。通康が築き上げた毛利家との絆は、通総の代にも受け継がれましたが、やがて豊臣秀吉の時代が訪れると、通総は毛利氏から離れ、秀吉の家臣となる道を選びます。
村上通康の生涯は、短いものでしたが、彼の決断は毛利家の運命を大きく変え、戦国時代の歴史に確かな足跡を残しました。彼の名は、毛利家を支えた「海の力」を象徴する存在として、今も語り継がれています。

俺たちの力なくして、毛利の繁栄はなかっただろう。
特に通康のお頭の決断は大きかった。あの厳島の戦いでは、潮の流れを読む力が、何よりも重要な戦術だったからな。
毛利は陸のことは知っていても、海のことは俺たち海の男に頼るしかなかったってことだ。
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