【歴史の分岐点】大内輝弘の乱が変えた毛利と大友の関係

戦い

戦国時代に九州地方の覇権をめぐり、長年にわたって対立を続けていた毛利氏と大友氏。両者の関係を決定づける一つの大きな事件が、1569年に起こった大内輝弘の乱です。

この乱は、毛利家にとって危機となり、また、大友家との関係を決定づける歴史の分岐点となりました。今回は、この乱が両家の覇権争いにどのような影響を与えたのかを紐解いていきます。


大友宗麟が仕掛けた「謀略」

大内輝弘(おおうち てるひろ)は、滅亡した名門・大内氏の血を引く人物でした。彼は豊後国(現在の大分県)の大友宗麟(おおとも そうりん)によって擁立され、毛利氏が支配する周防国(現在の山口県東部)に上陸し、挙兵します。

これは、毛利氏が九州の立花山城を攻略している隙を突いた、宗麟による周到な謀略でした。宗麟の狙いは、「毛利軍を九州から撤退させ、その勢力を削ぐこと」にありました。

当時の毛利家にとって、大内氏の残党による反乱は、決して無視できない脅威でした。毛利元就がこの乱に強い危機感を抱いたのは、過去に大内氏を滅ぼした経緯があるため、旧大内家臣団が再び集結する可能性を恐れたからです。


毛利家の迅速な対応と乱の鎮圧

大内輝弘の乱は、毛利家を一時的に窮地に陥れました。しかし、毛利家は迅速な対応を見せます。元就は、九州からの撤退を指示。次男である吉川元春は、周防へ急行しました。

元春は、周防に上陸した大内輝弘の軍を、わずか数日で打ち破り、乱を鎮圧しました。

乱の鎮圧には、以下の点が大きく影響しました。

  • 吉川元春の決断力と軍事手腕
  • 毛利家の家臣団の結束力
  • 大内輝弘の軍が、旧大内家臣団から十分な協力を得られなかったこと

乱が変えた両家の覇権争い

この乱を通じて、毛利元就は、大友宗麟が自家の覇権を脅かす最大の敵であることを再認識しました。一方で大友氏も、毛利家の結束力と、当主である元就の求心力、そして吉川元春の卓越した軍事手腕を思い知ることになります。

大内輝弘の乱は、大友宗麟が仕掛けた「一発逆転」の賭けであり、毛利氏と大友氏の関係を大きく変えることになりました。

  • 毛利氏:中国地方での支配を盤石なものにしました。一方で、門司城などの一部を残し、九州の拠点を失いました。その後、織田信長と対峙するようになり九州進出から手を引き、大友氏と戦うことはなくなりました。
  • 大友氏:毛利軍を撤退させることに成功、毛利氏に奪われていた筑前国(現在の福岡県)の領地・諸城も奪回しました。その後、毛利氏との戦いは無くなり、九州の覇権をめぐり龍造寺氏や島津氏との対立を深めていきます。

侍のコメント
侍のコメント

宗麟殿も、なかなか巧妙な手を打ったものよのう。
じゃが、元就殿の冷静な判断と、元春殿の迅速な軍事行動が勝敗を分けた。
この一件で、両雄が互いの力を認め、それぞれの道に進むことになった、まさに運命の乱であった。

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