戦国時代の名将・毛利元就は、厳島の戦いで陶晴賢を打ち破り、中国地方の覇者への道を切り開きました。しかし、もう一つの大きな壁が立ちはだかりました。出雲国(現在の島根県)に君臨する尼子氏の本拠地、月山富田城です。
「難攻不落」と称されたこの城を、元就は武力による力攻めではなく、卓越した智略と謀略で落としました。この記事では、毛利元就が仕掛けた知られざる戦いの真実に迫ります。
「難攻不落」の月山富田城
月山富田城は、天然の要塞として知られていました。周囲は険しい山々に囲まれ、麓の谷には川が流れ、攻め込むには非常に困難な地形でした。加えて、城内には豊富な水源と食料があり、籠城戦にはめっぽう強い城でした。過去、幾度も攻め落とされそうになりながらも、その堅固さから持ちこたえてきた歴史があります。
正面から力で攻め落とすのは、毛利軍にとっても大きな犠牲を伴うと判断した元就は、別の方法で城を落とすことを決意します。
兵糧攻めと調略:元就が仕掛けた二重の罠
元就が取った戦略は、二段階に分かれていました。
- 経済的封鎖による兵糧攻め: 毛利軍は、月山富田城と外部を結ぶ主要な補給路を完全に封鎖しました。これにより、城内への食料や物資の供給を絶ち、城の守備兵を飢えさせることを狙いました。
- 尼子家内部分裂を誘う調略: 元就の真骨頂は、武力だけでなく、人心を操る調略にありました。彼は尼子氏の家臣団に対し、密かに内応を働きかけました。尼子氏の当主である尼子義久は、家臣の忠誠を疑い、疑心暗鬼に陥ります。
- 尼子氏家臣の離反工作: 元就は、尼子氏の重臣たちに偽の書状を送り、彼らが毛利氏と内通しているかのように見せかけました。
- 当主・義久の疑心暗鬼: 尼子義久は、偽の書状を信じ込み、有能な家臣たちを次々と処罰したり、遠ざけたりしました。
- 城内の混乱と士気の低下: 家臣たちの処刑や離反によって、城内の結束は崩壊し、守備兵の士気は著しく低下しました。
武力なき勝利:城は内側から崩れた
兵糧が尽き、城内が混乱を極める中、尼子義久はもはや抵抗する力を失っていました。永禄9年(1566年)、毛利軍の本格的な攻撃を待つまでもなく、尼子義久は降伏しました。
この戦いは、毛利元就の「謀将」としての評価を決定づけました。彼は、圧倒的な軍事力を持つ敵を相手に、正面からぶつかるのではなく、敵の弱点を突くことで勝利を掴んだのです。月山富田城の戦いの勝利は、毛利氏が中国地方を統一する上で決定的な転換点となりました。武力で落とせなかった城を、智略で落としたこの戦いは、今なお多くの人々に語り継がれています。

武力に頼るは下策。敵の最も堅き部分ではなく、最も脆き部分を攻めるのが、わしの兵法じゃ。
月山富田城は天然の要害、されど、人の心はかくも脆いもの。
家中の疑心暗鬼を突き、内から崩す。これぞ、わしが最も得意とした戦い方。
この勝利は、毛利の武力にあらず、知恵が成した必然であったのじゃ。
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