戦国時代の名将・毛利元就は、天文24年(1555年)に厳島の戦いで陶晴賢を打ち破り、中国地方の覇者への道を切り開きました。
しかし、もう一つの大きな壁が立ちはだかりました。
出雲国(いずものくに-現在の島根県)に君臨する尼子氏の本拠地、月山富田城(がっさんとだじょう)です。
「難攻不落」と称されたこの城を、元就は武力による力攻めではなく、卓越した智略と謀略で落としました。
この記事では、毛利元就が仕掛けた知られざる戦いの真実に迫ります。
「難攻不落」の月山富田城

月山富田城は、天然の要害として知られていました。
周囲は険しい山々に囲まれ、麓の谷には川が流れ、攻め込むには非常に困難な地形でした。
その上、城内には豊富な水源と食料があり、籠城戦にはめっぽう強い城でした。
過去、幾度も攻め落とされそうになりながらも、その堅固さから持ちこたえてきた歴史があります。
正面から力で攻め落とすのは、毛利軍にとっても大きな犠牲を伴うと判断した元就は、別の方法で城を落とすことを決意します。
兵糧攻めと調略:元就が仕掛けた二重の罠

元就が取った戦略は、二段階に分かれていました。
兵糧攻め
月山富田城と外部を結ぶ主要な補給路を、完全に封鎖します。
これにより城内への食料や物資の供給を絶ち、城の守備兵を飢えさせることを狙いました。
調略
投降者も出始めていました。
しかしあえて投降を認めず処刑することで、城兵の減少を抑え、兵糧を食い尽くさせました。
そして、冬になり兵糧が底をついたタイミングで降伏を認めます。
これにより、尼子方の譜代家臣までも含む「集団投降を誘発」させ、城を孤立無援に追い込むことに成功しました。
籠城兵の間に、「必死の覚悟」から「命惜しさ」への急激な心理的転換を誘発し、さらに「誰が裏切るか」という味方への不信感を生み出す。
組織の士気と統制を一気に崩壊させるこの手口は、「人間心理を知り尽くした究極の調略」でした。
内部分裂:疑心暗鬼が生んだ自壊

- 当主・尼子義久の乱心: 義久は、奮闘を続けていた家老の宇山久兼を、讒言による疑心暗鬼から処刑してしまいます。
※実際に久兼が元就に調略され、寝返りを考えていたという説もあります - 城内の混乱と士気の低下: 家臣たちの処刑や離反によって、城内の結束は崩壊し、籠城兵の士気は著しく低下しました。
武力なき勝利:城は内側から崩れた
兵糧が尽き、城内が混乱を極める中、尼子軍はもはや抵抗する力を失っていました。
永禄9年(1566年)11月21日、ついに義久は降伏し、尼子氏は滅亡しました。
この戦いは、毛利元就の「謀将」としての評価を決定づけました。
難攻不落の要塞を相手に、弱点を突くことで勝利を掴んだのです。
この勝利は、毛利氏が中国地方を統一する上で決定的な転換点となりました。
武力で落とせなかった城を智略で落としたこの戦いは、今なお語り継がれています。
※この記事に掲載している画像はイメージです。実際の団体、個人、建物、商品などとは異なる場合があります。

難攻不落の城、されど、人の心はかくも脆いもの。
家中の疑心暗鬼を突き、内から崩す。これぞ、わしが最も得意とした戦い方よ。


コメント