広島市東区、活気ある広島駅のほど近くに、荘厳な社殿を構える広島東照宮があります。この神社は、天下人・徳川家康を神として祀る東照宮の一つです。
しかし、不思議に思いませんか? 関ヶ原の戦いで徳川家と敵対し、大敗を喫した毛利家がかつて治めた土地に、なぜ徳川家康の神社が建てられたのでしょうか?
この記事では、広島東照宮の創建に秘められた、当時の広島藩主・浅野家の複雑な思惑と、その歴史の真実を紐解いていきます。
広島城主交代:毛利氏から浅野氏へ
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発しました。西軍の総大将として敗れた毛利輝元は、領土のほとんどを没収され、長年治めた広島の地を追われることになります。
代わって広島に入城したのが、徳川家康の信任厚い浅野長晟(あさの ながあきら)でした。その後、家康の孫娘と結婚した彼の嫡男、浅野光晟(あさの みつあきら)が二代目広島藩主となります。
徳川家康を神として祀る東照宮が創建されたのは、この二代藩主・光晟の時代です。毛利氏に代わって広島を治めることになった浅野家にとって、東照宮の創建は単なる信仰心だけではない、重要な意味を持っていたのです。
浅野光晟の決断:東照宮創建に込められた政治的思惑
浅野光晟が東照宮を建てた背景には、以下のような政治的・戦略的な理由がありました。
- 徳川幕府への忠誠心の誇示: 広島は、かつて徳川家康と敵対した毛利氏の本拠地でした。ここで東照宮を建立することは、幕府に対する浅野家の揺るぎない忠誠心を示す、最も明確な方法でした。
- 領国支配の正当性確保: 東照宮を建てることで、徳川家康の権威を借り、毛利氏の旧臣や領民に対して、新たな支配者としての正当性を知らしめる狙いがありました。
- 領民の結束と平和への祈り: 荒れ果てた戦国の世を終わらせ、泰平の世を築いた家康の御威光を借りて、広島の街の安定と繁栄を願う意味合いも込められていたと伝えられています。
東照宮は、広島城の北東、鬼門の方角に位置しています。これは、城下町全体の守護を祈願する、風水的な意味合いも持っていました。
広島の歴史を語る、静かなる証人
広島東照宮は、創建から幾度もの災害に見舞われ、特に昭和20年(1945年)の原子爆弾投下で、社殿のほとんどを焼失しました。しかし、人々の手によって再建され、今もなおその威厳ある姿を保っています。
この神社は、徳川家康の魂を伝えるだけでなく、戦国の世が終わり、新しい時代を迎えた広島の複雑な歴史を、静かに見守り続けているのです。広島東照宮を訪れることは、単なる参拝ではなく、日本の歴史の大きな転換期を肌で感じることのできる、貴重な体験と言えるでしょう。
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広島東照宮
住所:〒732-0057 広島県広島市東区二葉の里2丁目1−18
公式HP:https://www.hiroshima-toshogu.or.jp/

なぜ広島に家康公を祀る社があるのか、その謎が解けたでおじゃる。
浅野殿の思惑、見事じゃな。武力だけでない、知恵をもって世を治めるという、時代の移り変わりを感じさせられる。
この東照宮は、ただの信仰の場ではなく、関ヶ原の戦いがもたらした歴史の重みを今に伝える、まことに貴重な存在じゃな。
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