福島正則(ふくしま まさのり)は、豊臣秀吉の幼少の頃からの側近であり、秀吉の天下統一に大きく貢献した武将です。
その後、関ヶ原の戦いでの活躍によって広島へ加増移封され、広島の歴史における重要人物の一人となりました。
一方で、広島城の無断改修により所領を没収された「悲運の武将」」として語られることも多いです。
しかしわずか19年の統治期間にもかかわらず、現代の広島市の街づくりの礎を築いた功績は計り知れません。
この記事では、その知られざる功績についてご紹介します。
悲運の武将が築いた「広島の礎」
福島正則は、慶長6年(1601年)3月に広島に入国後、毛利氏が築いた広島城と城下町の整備を本格的に進めました。
彼の治世で進められた街づくりは、現代の広島市の原型となる重要な役割を果たしたのです。
彼の主な功績は以下の通りです。
- 広島城の大規模な改修
- 毛利輝元が築いた広島城の縄張りを完成させ、二の丸や三の丸、外郭などの整備を行いました。これにより、広島城は近世城郭としての機能がさらに強化されました。
- 城下町の発展
- それまで山側を迂回していた主要な街道である西国街道を、城下に引き入れました。これにより、城下町の商業が活性化し、広島が商都として発展するきっかけとなりました。
- 検地の実施
- 領内全域で綿密な検地を行い、村ごとに年貢を徴収する制度を確立しました。これにより、安定した財源が確保され、藩の運営基盤が固められました。
正則は武勇に優れた武将として知られますが、このように内政面でも優れた手腕を発揮し、「広島の近世の扉を開いた功労者」だったのです。
なぜ悲運の最期を迎えたのか
正則の最大の悲劇は、元和5年(1619年)に発生した「広島城の無断改修事件」です。
大雨による洪水で被害を受けた城の石垣などを、幕府に許可を得ずに修復したことが、当時の将軍・徳川秀忠の怒りを買いました。
修繕した部分を破却する条件で、話が収まりかけます。
ところが一部の修築分しか破却しなかったことで、幕府は正則の処置を不十分と咎め、改易(かいえき)を命じました。
豊臣恩顧の大名であった正則は、徳川幕府から警戒されていた存在でした。
修築自体は、領民を守るための善意の行為でした。
しかしこれが幕府による厳しい処分の引き金となり、最終的に所領を没収され、改易されてしまったのです。
広島城に刻まれた正則の足跡

広島城には、正則が改易された後に破却を命じられ、その際に壊されたと推測される石垣の一部が現在も残されています。
彼の功績と悲劇の両方を物語る、貴重な「歴史の証人」と言えるでしょう。
武人として、そして為政者として、広島の歴史に大きな足跡を残した福島正則。
広島城を訪れる際は、彼が築き上げた街並みを想像しながら散策してみると、また違った歴史の魅力に触れることができるかもしれません。
※この記事に掲載している画像はイメージです。実際の団体、個人、建物、商品などとは異なる場合があります。

正則殿といえば、武勇に優れた猛将。しかし、為政者としても優れておった。
彼の想いは、今も広島城の石垣に残っておる。


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