【広島発展の礎を築いた男】福島正則の功績とは?

戦国時代

広島の歴史に名を刻む武将として、福島正則の名を聞いたことがある方は多いでしょう。関ヶ原の戦いで大きな功績を挙げた後、広島藩の初代藩主として入城した人物です。しかし、広島城の無断改修を理由に改易されたという悲劇的な最期から、「悲運の武将」というイメージが強いかもしれません。

しかし、彼の広島での統治期間はわずか19年間でしたが、現代の広島市につながる街づくりの礎を築いた功績は計り知れません。今回は、意外と知られていない福島正則の功績についてご紹介します。


悲運の武将が築いた「広島の礎」

福島正則は、広島に入城後、毛利氏が築いた広島城と城下町の整備を本格的に進めました。特に、彼の治世で進められた街づくりは、現代の広島市の原型となる重要な役割を果たしたのです。

彼の主な功績は以下の通りです。

  • 広島城の大規模な改修
    • 毛利輝元が築いた広島城の縄張りを完成させ、二の丸や三の丸、外郭などの整備を行いました。これにより、広島城は近世城郭としての機能がさらに強化されました。
  • 城下町の発展
    • 洪水の被害を避けるため、それまで山側を迂回していた主要な街道である西国街道を、現在の平和大通りに近い場所へ付け替えました。これにより、城下町の商業が活性化し、広島が商都として発展するきっかけとなりました。
  • 検地の実施
    • 領内全域で綿密な検地を行い、村ごとに年貢を徴収する制度を確立しました。これにより、安定した財源が確保され、藩の運営基盤が固められました。
  • 寺町の形成
    • 浄土真宗の寺院を集めて城下に再配置し、現在の広島市中区寺町地区の原型を作りました。これは、宗教勢力を管理する目的があったとされていますが、現代につながる街並みを形成する一因となりました。

福島正則は武勇に優れた猛将として知られますが、このように内政面でも優れた手腕を発揮し、広島の近世の扉を開いた功労者だったのです。


なぜ悲運の最期を迎えたのか

福島正則の最大の悲劇は、1619年に発生した広島城の無断改修事件です。大雨による洪水で被害を受けた城の石垣などを、幕府に許可を得ずに修復したことが、当時の将軍・徳川秀忠の怒りを買いました。

豊臣恩顧の大名であった正則は、徳川幕府から警戒されていた存在でした。修築自体は領民を守るための善意の行為でしたが、これが幕府による厳しい処分の引き金となり、最終的に所領を没収され、改易されてしまったのです。

広島城に刻まれた正則の足跡

広島城には、福島正則が改易された後に破却を命じられ、その際に壊されたと推測される石垣の一部が現在も残されています。彼の功績と悲劇の両方を物語る、貴重な歴史の証言と言えるでしょう。

武人として、そして為政者として、広島の歴史に大きな足跡を残した福島正則。広島城を訪れる際は、彼が築き上げた街並みを想像しながら散策してみると、また違った歴史の魅力に触れることができるかもしれません。


侍のコメント
侍のコメント

正則殿といえば、武勇に優れた猛将。
しかし、広島の地で見事な内政手腕を発揮されたとは、知らぬ者も多かろう。
武人でありながら、為政者としても優れておった。
乱世を生き抜いた男の末路は、かくも厳しきものかと、胸が痛む。しかし、彼の想いは、今も広島城の石垣に残っておるのじゃ。

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