「海賊大将」の異名を持つ村上武吉。彼は、戦国時代の瀬戸内海を支配した村上水軍の頭領です。陸の戦国大名たちが天下を競う中、彼は海から歴史の潮流を大きく動かしました。
しかし、なぜ彼は、毛利氏と手を組み、天下人である織田信長と敵対するという、異なる二つの決断を下したのでしょうか?
この記事では、村上武吉の行動の裏に隠された、彼の卓越した天下人外交と、その決断が歴史に与えた影響を紐解いていきます。
毛利元就との深い絆:厳島の戦いでの決断

天文24年(1555年)、毛利元就は厳島で、圧倒的な兵力を誇る陶晴賢(すえはるかた)と対峙していました。兵力で劣る元就は、正面から戦うのではなく、奇襲作戦を決意します。その際、海の支配権を握る村上武吉に援軍を要請しました。
この時、武吉は元就の要請を快諾します。その決断の背景には、単なる利害関係を超えた、深い信頼関係があったと言われています。
- 地理的な利害の一致: 毛利氏が陸の覇権を握ることで、瀬戸内海の海上交通を支配する村上水軍の権益が守られる。
- 武吉の器量を見抜いた元就: 元就は、武吉を単なる武力集団の頭領ではなく、海の統治者として高く評価していた。
厳島の戦いで、村上水軍は陶軍の退路を断ち、毛利軍の奇襲作戦を成功させます。この勝利により、毛利元就は中国地方の覇者となり、村上水軍と毛利氏の絆はより強固なものとなりました。
織田信長との対決:木津川口の戦いでの決断

毛利氏の傘下に入った村上武吉は、その後も織田信長と対立する石山本願寺への兵糧搬入を支援します。これに対し、信長は海上からの補給路を断とうとしました。
織田軍を迎え撃ったのが、武吉の子・元吉が率いる村上水軍です。この時、武吉は天下人である信長に敵対するという、大きな決断を下しました。
この決断の背景には、以下の理由が考えられます。
- 主君・毛利氏への忠誠: 毛利家との絆を重んじ、主君の意向に従った。
- 「海賊」の誇り: 陸の武将が海の支配権を奪おうとすることへの反発。
- 革新的な戦術への自信: 鉄甲船という未知の兵器に対し、独自の戦術で対抗できるという確信があった。
第一次木津川口の戦いにおいて、村上水軍は、陶器と火薬を用いた独自の兵器「焙烙火矢(ほうろくひや)」を駆使し、打ち破りました。この勝利は、信長の天下統一を一時的に足止めし、村上水軍の名を天下に轟かせました。
しかし、第二次木津川口の戦いでは、大敗から学んだ信長が、「鉄甲船」と呼ばれる鉄板で覆われた軍船を使用し、村上水軍は、焙烙火矢が効かない未知の兵器を前に敗北しました。

時代の変化と武吉の最後の決断
戦国の世が終わりに近づき、豊臣秀吉が天下を統一すると、武吉は再び大きな決断を迫られます。秀吉は、全国の海賊衆に対し、私的な領有を禁じる「海賊禁止令」を発布しました。
武吉は、長年支配してきた瀬戸内海の権益を失いますが、秀吉の意向に従い、毛利氏の庇護のもとで晩年を過ごしました。
村上武吉は、時代に応じて主君を選び、時には天下人と渡り合った、稀代の外交家でした。彼の生涯は、単なる武力だけでなく、知略と決断力、そして誇りをもって乱世を生き抜いた、もう一つの戦国物語を私たちに伝えています。

お頭が毛利の親分に味方し、織田に喧嘩を売ったって話、痛快だな!
厳島の戦いでは、毛利の親分のため。木津川口の戦いでは、海賊の誇りのため。
こんなご時世、みんな自分のことばかり。でもお頭は、仲間と誇りのために命を張ったってわけだ!
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