【悲劇の忠臣】濡れ衣で元就に処刑された、赤川元保

人物解説

戦国時代、毛利元就は「謀神」と称されるほどの智将でした。しかし、その生涯には、彼の絶対的な信頼を得ていたはずの重臣を突如として粛清するという、理解しがたい出来事がありました。その犠牲となったのが、赤川元保(あかがわ もとやす)です。

忠義を尽くした家臣は、なぜ主君の手によって命を奪われたのでしょうか?そこには、戦国大名という立場から見た、元就の冷徹な決断と、毛利家内部に渦巻く複雑な人間関係が隠されています。

信頼の証:隆元の側近、赤川元保

赤川元保は、毛利家臣団の中でも、特に毛利元就からの信頼が厚い人物でした。

彼は、元就の子・隆元の代に五奉行制度が始まると、隆元の直属奉行人筆頭に任命され、隆元の側近として仕え、毛利家の中枢で活躍しました。

信頼の崩壊:悲劇の始まり

1563年、隆元が家臣・和智誠春(わち まさはる)の饗応を受けた直後に急死します。

この急死について、元保が尼子氏と通じて誠春と結び、毒殺したのではないかと疑われ、謹慎処分を言い渡されます。

悲劇的な最期

その4年後の1467年、元保は、この内通の嫌疑によって、自刃に追い込まれます。さらに、弟・元久や養子・又三郎らも誅殺されました。

ところが、死後に元保は隆元に誠春の饗応の誘いに応じないように助言していたことがわかり、潔白が証明されました。
元就は深く後悔し、元保の兄・就秀の次男である元之に家を継がせ、赤川家を再興させました。

まとめ

赤川元保の生涯は、忠誠心だけでは生き抜けなかった戦国時代の悲劇を物語っています。彼の死は、主君の疑心と毛利家内部の複雑な人間関係が絡み合った、歴史の闇に葬られた出来事でした。

この事実は、元保が単なる反逆者ではなく、主君の非情な決断によって命を落とした、真の忠臣であったことを示しています。


侍のコメント
侍のコメント

これは悲しき物語にござるな。主君に尽くし、潔白であったにもかかわらず、その忠誠が報われぬとは。
人の心はかくも複雑で、戦国の世は非情なものよ。

コメント

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