戦国時代の中国地方の覇者、毛利元就。
その巧妙な策略と知略で、毛利家をわずか一代で大国に押し上げた人物として知られています。
彼の人生の礎を築いたのは、早逝した父・毛利弘元(もうり ひろもと)でした。
元就の人生観や後に見せる慎重な性格、そして家臣を大切にする姿勢は、父である弘元の悲劇的な生涯から色濃く影響を受けていると言えます。
今回は、毛利家の苦難の時代を生き、元就の運命を決定づけた父・毛利弘元の生涯をたどります。
宿命の板挟み:苦悩した当主

文明8年(1476年)、父・豊元の死を受けて毛利弘元が家督を継ぎます。
当時の毛利家は、安芸国の一国人領主に過ぎませんでした。
周防・長門の守護大名・大内氏、出雲の守護大名・尼子氏のという巨大勢力に挟まれ、存亡の機に瀕していました。
そのような中で毛利家は、大内氏に従う道を選びます。
大内氏の当主・大内政弘が死去すると、跡を継いだ大内義興に従いました。
狂い始めた歯車:毛利家を襲うジレンマ
明応8年(1499年)、「明応の政変」によって将軍の座を追われた足利義稙が、大内義興を頼って周防国へと亡命します。
大内氏が前将軍を保護したことで、大内氏と管領の細川氏の対立が勃発。
これにより毛利家は、相反する二君の間で板挟みとなってしまいます。
- 管領・細川氏が発する室町幕府の命令
- 地元で絶大な実力を持つ大内氏への服従
大内氏に従い続ければ細川氏を敵に回す、すなわち幕府とも敵対することになります。
かといって大内氏から離反すれば、隣接する巨大勢力に即座に飲み込まれることを意味していました。
限界に達した心労:「逃避」という決断
弘元は両家の顔色をうかがいながら、毛利家を存続させるために奔走。
しかし、次第にその心労は限界に達します。
この苦境から逃れるため、明応9年(1500年)に弘元は家督を8歳の長男・興元に譲ります。
そして自らは次男である元就を連れ、安芸の多治比猿掛城に隠居しました。
幼き元就が見た父の背中

その心労は、癒えることはありませんでした。
隠居後の弘元は酒に溺れるようになり、39歳という若さでこの世を去ります。
死因は、「酒害(酒の飲みすぎ)」によるとも伝えられています。
この父の姿を、当時まだ幼かった元就は間近で見ていました。
父が酒に溺れ、若くして命を落とす姿は、元就の心に深く刻まれたことでしょう。
この経験が、元就の人生に決定的な影響を与えたとされています。
父の死後、跡を継いだ兄の興元も若くして酒害により急死し、毛利家はさらに不安定な状況に陥ります。
興元の子・幸松丸が2歳で跡を継いだものの、9歳で亡くなります。
その結果、元就が家督を継承するに至りました。
毛利家を揺るがした「酒の呪い」
元就が家督を継ぐ直前、毛利家は三代にわたって「酒害」により早世しています。
- 祖父・毛利豊元(享年33)
- 父・毛利弘元(享年39)
- 兄・毛利興元(享年24)
悲劇を乗り越え、元就は中国地方の覇者へ

元就は、父が経験したような「大国に翻弄される苦しみ」を繰り返さないと心に誓ったのかもしれません。
酒の呪いを断つ:元就が得た教訓
彼は父や兄の最期から「酒は身を滅ぼす」という教訓を学び、生涯にわたって節酒を心がけたと言われています。
その結果、当時としては驚異的な長寿である75歳まで生き抜き、毛利家を中国の覇者へと押し上げる時間を勝ち取りました。
毛利弘元の悲劇的な生涯は、息子である元就に、強靭な精神と稀代の策略家としての才覚を育む土壌となりました。
元就は父の無念を晴らすかのように、瞬く間に中国地方の覇権を掌握。
毛利家を地方の一豪族から強大な勢力へと飛躍させ、その繁栄を揺るぎないものにしたのです。

父上が志半ばでこの世を去られた無念を思うと、わしが家督を継ぎ、毛利を大国へと導くことは、天命であったのかもしれん。
父上が身をもって教えてくださった教訓があったからこそ、今の毛利家があるのだ。

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