【尼子再興の鬼】毛利を恐れさせた忠義の武将、山中鹿介の生涯

山中鹿介の反乱 人物伝

戦国時代、毛利氏は中国地方の覇者として、その知略で多くの敵を打ち破りました。

しかし、最後まで手を焼かせた一人の武将がいます。

それが、滅亡した主家・尼子氏の再興をかけて戦い続けた山中幸盛(通称・山中鹿介-やまなか しかのすけ)です。

「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」

この言葉に象徴されるように、鹿介は尼子家の再興を生涯の悲願とし、自ら困難を求めました。

その不屈の精神は、強大な毛利氏の軍勢を何度も翻弄。

毛利氏にとって最も厄介な敵として立ちはだかったのです。


尼子氏滅亡と、鹿介の武者修行

尼子氏は、永禄9年(1566年)11月21日に毛利氏により居城の月山富田城が陥落し、滅亡しました。

しかしこのような絶望的な状況にあっても、尼子氏の再興を目指す者もいました。

その中心なったのが、鹿介です。

浪人となった鹿介は、湯治で傷を癒し、諸国を巡り軍法を学ぶ日々を送ったと言われています。

その後、京都の寺で僧侶となっていた尼子勝久を還俗させ、主君として擁立。

尼子遺臣らを集め、尼子家再興の機会をうかがいました。

尼子勝久(あまご かつひさ)とは

父は尼子誠久で、祖父は尼子氏の精鋭部隊「新宮党」の党首であった尼子国久。
誠久ら新宮党は、当主の尼子晴久の命により粛清されます。
この際に勝久は救出され、京都の東福寺に入り僧となることで命を繋ぎました。

尼子再興軍、挙兵:毛利氏を苦しめた「不屈の闘志」

永禄12年(1569年)4月、毛利氏は大友氏との戦いのために九州へ出兵。

山陰が手薄になった隙をつき、尼子再興軍は兵を挙げました。

  • 毛利氏の苦戦: 鹿介のゲリラ戦は毛利軍を揺るがし、長期にわたる戦いを強いました。
  • 士気の高揚: 鹿介の優れた武勇は、尼子再興軍全体の士気を高めました。
  • 大脱走劇: 鹿介は捕らえられても脱走し、各地を転々としてゲリラ活動を行いました。

悲劇の最期と、後世に語り継がれる英雄譚

鹿介たちの奮闘は、中国地方の情勢を大きく揺るがしました。

ついには、織田信長という中央の権力者にも注目されることになります。

彼らは、織田氏の力を借りて播磨国(現在の兵庫県南西部)の上月城を任され、毛利氏との最前線で戦い続けます。

しかし、播磨の要衝を抑える別所長治が毛利方に離反したため、信長は戦略を転換。

織田軍は上月城救援を諦め、最優先目標を三木城の奪還に切り替えたのです。

これによって上月城は孤立無援となり、毛利軍の圧倒的な兵力による総攻撃を受け、尼子再興軍は降伏。

尼子勝久は自刃します。

悲劇の最期

鹿介も再び囚われの身となります。しかし天正6年(1578年)7月17日、毛利輝元の下へと護送される途上で謀殺されました。
享年は、34歳または39歳と言われています。

※暗殺された理由はわかっていません
再びの反乱を恐れた毛利輝元が命じた、あるいは家臣が無断で実行したとされています。

山中鹿介の生涯は、滅亡した主家・尼子氏への「七難八苦」を恐れぬ純粋な忠義を貫いた、戦国時代における悲劇的な英雄譚として語り継がれています。

彼の不屈の闘志は、中国の覇者・毛利氏を最後まで苦しめました。
しかし時代の流れと冷徹な政治的判断により、無念の最期を迎えることとなりました。


侍のコメント
侍のコメント

主家再興の悲願に、七難八苦を恐れず挑み続けたその忠義と闘志、まさに武士の鑑。
毛利家を最後まで苦しめた働きは、時代を超えて決して朽ちぬ誉れにござる。

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