天文24年(1555年)10月1日、毛利元就(もうり もとなり)と陶晴賢(すえ はるかた)が激突した「厳島の戦い(いつくしまのたたかい)」は、日本史に残る一大決戦です。
2万もの兵力を持つ陶軍に対し、毛利軍はわずか4千人。
誰もが陶軍の勝利を疑いませんでした。しかし、結果は毛利軍の圧勝。
奇跡的に見えますが、これは「必然的勝利」でした。
それを可能にしたのは、元就が周到に準備した「奇襲作戦」。
地形、天候、そして謀略。
この3つの要素を巧みに操ることで、彼は圧倒的に不利な状況を覆したのです。
地形を味方につけた「罠」としての厳島

まともに戦っては勝ち目がないと判断した元就は、戦場を「厳島」に設定します。
本土との狭い海峡を挟んだ対岸にある宮尾城を手に入れておき、この城を「エサ」として、陶軍を厳島へとおびき寄せました。
狭い島内では、大軍の利点である「数」を活かせません。
厳島の「地の利」が、元就にとって最大の武器となったのです。
陶晴賢を操った「謀略」

厳島の戦いの最も注目すべき点は、武力による勝利ではなく、徹底して謀略を巡らせたゆえの勝利という点にあります。
元就は戦いが始まる前から晴賢の心理を読み、巧みな罠を仕掛けていました。
- 宮尾城の囮:「厳島を攻められると勝てない」という嘘の情報を流すことで、晴賢に「宮尾城は簡単に落とせる」と錯覚させました。
- 偽の書簡:家臣の桂元澄から晴賢に「開戦後、陶軍に寝返る」という、嘘の内容を記した内応書を送らせました。
- 水軍の掌握:村上水軍を味方につけ、陶軍の海上からの逃走経路を完全に封鎖しました。
天候までも味方につけた「神がかり」なタイミング

元就の罠にかかった陶晴賢は、宮尾城を攻略すべく厳島へ渡海します。
陶軍は海に面した狭い場所に密集していました。
元就はこの地形的弱点を突くため、「奇襲」を計画します。
奇襲を成功させるには、タイミングが重要です。
彼は、このタイミングを完璧に読み切っていました。
厳島の戦いの前夜、「暴風雨」が発生。
一般的に、悪天候は作戦を困難にします。
しかし元就は好機と捉え、密かに海を渡り、陶軍の背後にある包ヶ浦へ上陸しました。
- 闇による視界不良
- 荒れ狂う嵐の音が、上陸する船の音や兵の足音をかき消した
この悪天候は、毛利軍にとって「奇襲のための最高の隠れ蓑」となりました。
陶軍は敵の存在を察知できず、毛利軍は警戒されることなく完全な奇襲体制を整えることができたのです。
陶晴賢の最期:陸海挟撃が導いた完全勝利

合戦当日、毛利軍は陸から奇襲攻撃を開始すると同時に、海からも水軍が攻撃を仕掛けました。
この「陸海一体の挟撃作戦」により逃げ場を失った陶晴賢は、自刃へと追い込まれました。
※戦いに関しての創作も多いとされ、兵力差、陶晴賢が渡海した理由などについては諸説あります。
まとめ
厳島の戦いは、情報収集や心理戦といった「見えない戦い」こそが勝敗を分ける決定打となることを証明しました。
「兵力の多寡が勝敗を決める」という常識を覆した、歴史的な戦いだったのです。
この勝利によって、毛利氏の勢力は一気に拡大します。
この戦いで大内氏の実権を握っていた陶晴賢を討った後、残る大内氏の勢力も吸収。
最終的に、中国地方のほぼ全域を支配する一大勢力へと成長していくのです。
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地形や天候を利用し、何よりも敵の心を読み切った謀略こそが、勝利の鍵であった。
兵の数で劣っていても、知略を尽くせば道は開けるのじゃ。


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