【毛利元就はなぜ勝てた?】厳島の戦いの勝利を分けた“3つの謀略”とは

戦い

1555年、安芸国(現在の広島県)の厳島で、わずか4,000の兵を率いた毛利元就が、20,000を超える大軍を擁する陶晴賢(すえ はるかた)を打ち破りました。

圧倒的な兵力差を覆したこの勝利は、元就を「戦国最強の謀略家」として知らしめました。

なぜ元就は勝利を手にできたのでしょうか?その鍵は、彼が周到に仕掛けた「3つの謀略」にありました。


謀略1:敵将・陶晴賢を厳島へおびき出す「地形を利用した罠」

毛利元就は、戦いの場所として厳島を選びました。これは偶然ではありません。厳島は潮の満ち引きが激しい上に、島の大部分が山地であり、大軍の展開に適さない場所です。元就は、この地形を最大限に利用しようと考えました。

まず、彼は厳島の対岸にある宮尾城をあえて手薄にすることで、陶晴賢に「毛利軍は劣勢だ」と錯覚させます。この誘いに乗った陶晴賢は、大軍を率いて厳島に上陸しました。

しかし、元就の狙いは別にありました。陶軍が上陸した時、元就は潮が引くタイミングを計算しており、陶軍の背後を海で遮断する計画を立てていたのです。


謀略2:奇襲作戦を成功させた「味方への欺瞞工作」

元就は、陶晴賢を厳島に誘い出すことに成功しましたが、それでもなお兵力差は圧倒的でした。そこで彼が次に講じたのが、陶軍への奇襲作戦です。この作戦を成功させるため、元就は自身の軍勢にも“欺瞞工作”を仕掛けました。

  • 奇襲の時間を厳秘にする:部下にも作戦の全貌を明かさず、決行直前まで秘匿しました。
  • 軍船に偽装を施す:陶軍に警戒されないよう、毛利軍の船を漁船や商船のように見せかけました。
  • わざと味方の大将を撤退させる:陶晴賢を欺くため、元就はわざと味方の大将である弘中隆兼に厳島から撤退を命じ、陶軍に「毛利軍は戦意を喪失した」と誤認させました。

特に弘中隆兼の撤退は、陶軍の油断を誘う大きな要因となりました。彼は元就の真意を悟りつつも、その計略に従い、見事に敵を欺きました。


謀略3:勝利を決定づけた「夜襲」と「内応者」の活用

1555年10月1日未明、満潮で陶軍の退路が断たれた隙をついて、元就は奇襲を仕掛けます。

  • 闇夜に乗じた奇襲:夜の闇に乗じて船団で厳島に上陸し、陶軍の本陣へ奇襲を敢行。
  • 内応者の活用:厳島に潜伏させていた内応者と連携し、陶軍を混乱に陥れました。
  • 大混乱に陥る陶軍:予想外の奇襲に、陶晴賢は戦場を混乱させ、大将の陶晴賢は逃走。そして自害。

この奇襲は、ただ兵士を突入させただけではありません。事前に内応者を配置し、内部から敵を攪乱するという巧妙な手口が使われていました。

また、元就は弘中隆兼の進言を敢えて無視することで、陶晴賢に「元就は手詰まりだ」と確信させました。この緻密な計算と、状況を冷静に見極める力こそが、元就を勝利に導いた最大の要因と言えるでしょう。


厳島の戦いの結果と毛利氏の隆盛

この勝利によって、中国地方における毛利氏の勢力は一気に拡大しました。大内氏の実権を握っていた陶晴賢を討ち、その後、元就は残る大内氏の勢力も吸収していきます。そして、やがて中国地方のほぼ全域を支配する一大勢力へと成長しました。

厳島の戦いの勝利は、“奇跡ではなく必然”でした。単なる武力による勝利ではなく、「知恵と策略」がいかに戦況を左右するかを証明した歴史的な戦いだったのです。


毛利元就のコメント
毛利元就のコメント

兵の数など、知恵と策の前には些末なもの。
地形を読み、敵の心を見透かし、味方すら欺く。それこそが戦の真髄じゃ。
すべては毛利家の未来のため。
厳島の勝利は、まこと、わしが命を賭して成した大一番じゃった。

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