戦国時代の中国地方を舞台に、熾烈な覇権争いを繰り広げた二人の智将がいます。一方は「謀聖」と称された尼子経久、もう一方は「謀神」と恐れられた毛利元就です。
尼子経久は、一代で出雲国守護代の立場から「十一カ国太守」とまで呼ばれる勢力に拡大した下剋上の体現者でした。しかし、その晩年に立ちはだかったのが、若き毛利元就でした。両雄の知略がぶつかり合った結果、尼子氏の栄光は終わりを告げます。
なぜ、経久は元就に敗れたのでしょうか?その理由を、彼らの栄光と最期を辿りながら見ていきましょう。
「謀聖」尼子経久の栄光
尼子経久は、その生涯において数々の謀略を成功させ、自らの地位を築き上げました。彼の代名詞とも言えるのが、追放された後に居城である月山富田城を奪還した時の策です。
【尼子経久の三大謀略】
- 月山富田城奪還の謀略: 追放された経久は、城内で内応する者を募り、城内の混乱に乗じて夜襲を仕掛け、わずかな手勢で城を奪い返しました。
- 国人衆の懐柔: 力で押さえつけるのではなく、国人衆の不満を巧みに利用し、味方につけて勢力を拡大しました。
- 「謀聖」の異名: 敵対する山名氏を騙し討ちにするなど、その冷徹かつ巧妙な策から「謀聖」と呼ばれるようになりました。
こうした謀略を駆使して、経久は出雲国を統一し、最盛期には山陰・山陽合わせて11カ国を支配するまでになります。
「謀神」毛利元就との激突と敗因
尼子経久が晩年を迎える頃、安芸国では毛利元就が着々と勢力を拡大していました。吉田郡山城をめぐる攻防戦は、二人の智将の運命を分ける決定的な戦いとなります。
なぜ、尼子経久は毛利元就に敗れたのか?
最大の理由は、経久の「下剋上」の手法が、元就の前に通じなかった点にあります。経久は、国人衆の不満を煽り、内部を攪乱する謀略を得意としましたが、元就はそれを見抜き、強固な家臣団の結束で対抗しました。
また、経久の死後、尼子氏が急速に衰退したことも敗因の一つです。
- 後継者問題: 経久が築き上げた強大な尼子氏でしたが、息子や孫たちの間で家臣を巡る争いが絶えず、内部の結束が弱まりました。
- 元就の離間の計: 元就は、尼子氏の家臣である新宮党を謀殺に追い込むなど、経久の孫・晴久の代になってから離間の計を仕掛け、尼子氏の結束をさらに弱体化させました。
経久のカリスマ性が失われた後、元就の巧みな謀略の前に、尼子氏はもはや手も足も出ませんでした。
尼子経久の最期と歴史的意義
晴久が吉田郡山城の戦いで大敗を喫した後、経久は表舞台から姿を消し、静かに余生を送りました。しかし、彼が築き上げた下剋上の歴史は、後世に大きな影響を与えました。
経久は、強大な武力だけでなく、知略をもって時代を動かすことができることを証明した人物です。彼の築いた「謀聖」という称号は、武力一辺倒の時代に知略の重要性を示した、彼の功績を称えるものと言えるでしょう。
彼の生涯は、いかにして弱者が強者に立ち向かい、勝利を収めるか、そして権力を維持することの難しさを私たちに教えてくれます。

経久殿は、まことに手ごわい相手であった。彼の築き上げたもの、その全てが智謀に満ちておった。
じゃが、時の流れというものは、誰にも止められぬ。わしが勝ったのは、単に運が良かったわけではない。経久殿の策を読み、その先をいく手を打ったまでのことよ。
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