毛利元就といえば、「謀神」や「三矢の教え」といった言葉が思い浮かぶでしょう。しかし、その輝かしい成功の裏には、彼を支え、導いた忠臣たちの存在がありました。中でも、若き日の元就を支え、毛利家の家督相続という最大の危機を乗り越えさせたのが、重臣の一人である志道広良(しじ ひろよし)です。
今回は、毛利家の歴史において欠かすことのできない志道広良の生涯と、彼が果たした重要な役割について解説します。
毛利家の大功臣、志道氏とは?
志道氏は、毛利氏の庶流でありながら、代々毛利家に仕え、その重臣として重要な役割を担ってきました。広良の父である志道広実もまた、毛利興元の時代に重臣として活躍しています。
志道広良は、その知略と誠実さで毛利興元から深く信頼されていました。彼の真価が問われたのは、興元が若くして亡くなった後、わずか2歳の幸松丸が家督を継いだ時でした。
家督相続を巡る内紛と広良の尽力
幸松丸が幼少であったため、毛利家は大きな危機を迎えます。この時、毛利興元の弟である毛利元就が家督を継ぐべきだと考える家臣と、別の人物を推す家臣の間で、激しい対立が起きました。
特に、坂広秀を筆頭とする坂氏との権力争いは熾烈を極めました。坂広秀は、幸松丸の後見人として権力を握ろうと画策し、毛利家の分裂を招きかねない状況だったのです。
この緊迫した状況を収束させたのが、志道広良でした。彼は、坂広秀の不正を追及し、毛利家の秩序を守るために毅然とした態度で臨みました。
志道広良の尽力により、坂広秀は排除され、毛利家の家督は元就に託されることになります。この家督相続の危機を乗り越えさせた功績こそ、広良の最大の功績と言えるでしょう。
若き元就の「後見人」として
家督を継いだ当初、毛利元就はまだ若く、家臣団をまとめるには困難を伴うこともありました。志道広良は、そんな元就を支えるべく、起請文を交わし、忠誠を誓います。この起請文は、元就が志道広良をいかに信頼していたかを示す貴重な史料です。
広良は、単なる忠臣として元就に従うだけでなく、時に厳しく、時に優しく、政務や軍事にわたって助言を与えました。
広良が元就に与えた助言は、多岐にわたります。
- 吉川氏・小早川氏との関係強化:元就が両家を毛利家に取り込む上で、広良は重要な役割を果たしました。
- 尼子氏・大内氏との外交戦略:弱小であった毛利家が生き残るための外交方針について、広良は元就に助言を与え続けました。
- 家臣団の統制:家督相続後も、広良は家臣団の秩序を保つために尽力しました。
「君は船、臣は水」に込められた想い
志道広良は、その生涯を毛利家に捧げ、忠義を貫きました。特に有名なのが、毛利隆元が家督を継いだ際に元就に宛てた書状です。この中で、広良は「君は船、臣は水」という言葉を引用し、君臣の関係を説いています。
この言葉は、元就が隆元の成長を信じ、家臣たちが一丸となって支えることの重要性を説いたものです。
若き元就を支え、毛利家の礎を築いた志道広良。彼の存在がなければ、毛利家が戦国の世を勝ち抜き、中国地方の大大名となることはなかったかもしれません。彼の生涯は、まさに「縁の下の力持ち」として、毛利家の歴史を支え続けた物語なのです。

若き元就公を支え、家督相続の危難を救った働き、見事であるな。
誠忠の士がいればこそ、大業も成るというもの。殿を支えし影の功労者、その心意気、しかと受け取った。
コメント