室町幕府の最後の将軍である足利義昭(あしかが よしあき)。
彼は、戦国乱世の渦中で、天下統一を目指す織田信長によって京を追放され、鞆の浦(とものうら-現在の広島県福山市)へとたどり着きました。
この地で彼は、名ばかりではありますが「鞆幕府(ともばくふ)」と呼ばれる政権を樹立し、幕府再興の夢を追い続けます。
なぜ義昭は、数ある地の中から鞆の浦を選んだのでしょうか?
そこには、室町幕府の将軍としての誇りと、当時の政治情勢、そして鞆の浦が持つ地理的特性が深く関わっていました。
京を追われた将軍:信長との決別~鞆の浦へ

足利義昭は、兄の13代将軍・足利義輝が暗殺された後、自身も幽閉されるという苦難を経験しました。
その後、永禄11年(1568年)10月18日に織田信長の力を借りて京に入り、15代将軍の座に就きます。
当初、信長と義昭は協力関係にありました。
しかし将軍の権威を利用して天下統一を推し進めたい信長と、失われた幕府の権威を取り戻したい義昭の間には、次第に溝が生まれていきます。
信長は義昭に対し、「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」と呼ばれる、将軍の権限を制限する箇条を突きつけました。
これにより、将軍としての実権を奪われかけた義昭は、各地の大名に「信長包囲網(のぶながほういもう)」の形成を呼びかけ、信長との直接対決の道を選びます。
ところが信長の圧倒的な武力の前には及ばず、義昭は京を追放されることとなります。
毛利氏の庇護と鞆の浦への到着

京を追われた義昭は各地を転々としながらも、将軍としての権威を保ち、幕府再興の機会をうかがっていました。
その中で彼が頼ったのが、西国の大大名である毛利輝元でした。
毛利氏は当時、織田氏と対立関係にありました。
義昭を保護することで、信長に対抗する「大義名分」を得ようとしたのです。
こうして義昭は、毛利氏の庇護のもと、瀬戸内海の要衝である鞆の浦へと身を寄せることになります。
天正4年(1576年)2月のことでした。
「鞆幕府」の機能と将軍の権威
鞆の浦に滞在した義昭は、この地で政を執りました。
これは一般的に「鞆幕府」と呼ばれています。
鞆幕府には、以下のような特徴がありました。
- 将軍としての公文書発給: 義昭は鞆において、引き続き将軍としての命令や感状を発行していました。これは、自身の正統性を主張し、各地の武将に協力を求めるための重要な手段でした。
- 反信長勢力の結集: 毛利氏だけでなく、九州の大友氏や島津氏、さらには大坂本願寺など、信長と敵対する勢力は、義昭を名目上の盟主として、反信長包囲網を形成しました。
- 外交窓口としての役割: 義昭のもとには、各地の大名からの使者が訪れ、情報交換や連携の協議が行われていました。鞆は、まさに反信長勢力の外交拠点となっていたのです。
しかしこの鞆幕府は、将軍としての実質的な軍事力や支配領域を持たない、名目上の政権に過ぎませんでした。
義昭が抱く室町幕府再興の夢は、現実の厳しさの中で、徐々に遠のいていくことになります。
将軍が鞆の浦を選んだ理由:地理的・歴史的背景

なぜ義昭は鞆の浦を選んだのでしょうか。
そこには、この地の持つ地理的、歴史的特性が大きく関係していました。
- 瀬戸内海の要衝: 鞆の浦は、古くから潮待ちの港として栄え、瀬戸内海交通の要衝でした。各地からの船が行き交うこの場所は、情報収集や人脈形成に有利でした。
- 毛利氏の支配圏: 鞆の浦は、当時、義昭を保護していた毛利氏の支配圏内にあり、安全を確保しやすい場所でした。
- 歴史的な背景: 鞆は、南北朝時代に足利尊氏と関わりがあり、その後の足利将軍家に大きな影響を与えた地でもありました。義昭は、この地の歴史的な意味合いにも期待を寄せたのかもしれません。
これらの要素が複合的に作用し、足利義昭は鞆の浦を室町幕府再興の最後の舞台として選びました。
夢の果てと鞆幕府の意義
その後も毛利氏の庇護を受け続け、豊臣秀吉の時代には大名として厚遇されます。
彼が鞆の浦を拠点に再興を志した室町幕府は、その夢を果たすことなく歴史の幕を閉じました。
一方で「鞆幕府」の存在は、将軍の権威が失墜しつつあった戦国時代にあってもなお、室町幕府という存在が人々に与える影響の大きさを物語っています。
将軍を支えた鞆の浦は、歴史の大きな転換点において重要な役割を果たした地として、今もその物語を静かに語り継いでいるのです。

将軍としての権威を保ち、信長殿に対抗する大義名分を求めての決断であったか。
京を追われてなお、将軍の座を諦めなかったその気骨、見事と申すほかない。

コメント