戦国時代の動乱期、室町幕府の最後の将軍である足利義昭は、天下統一を目指す織田信長によって京を追放され、鞆の浦(現在の広島県福山市)へとたどり着きました。この地で彼は、名ばかりではありますが「鞆幕府」と呼ばれる政権を樹立し、幕府再興の夢を追い続けます。
しかし、なぜ義昭は数ある地の中から鞆の浦を選んだのでしょうか?そこには、室町幕府の将軍としての誇りと、当時の政治情勢、そして鞆の浦が持つ地理的特性が深く関わっていました。
京を追われた将軍:信長との決別
足利義昭は、兄である13代将軍・足利義輝が暗殺された後、織田信長の力を借りて京に入り、15代将軍の座に就きました。当初、信長と義昭は協力関係にありましたが、将軍の権威を利用して天下統一を推し進めたい信長と、失われた幕府の権威を取り戻したい義昭の間には、次第に溝が生まれていきます。
信長は義昭に対し、「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」と呼ばれる、将軍の権限を制限する箇条を突きつけました。これにより、将軍としての実権を奪われかけた義昭は、各地の大名に「信長包囲網」の形成を呼びかけ、信長との直接対決の道を選びます。しかし、信長の圧倒的な武力の前には及ばず、義昭は京を追放されることとなります。
毛利氏の庇護と鞆の浦への到着
京を追われた義昭は、各地を転々としながらも、あくまで将軍としての権威を保ち、幕府再興の機会をうかがっていました。その中で、彼が頼ったのが、西国の大大名である毛利輝元でした。
毛利氏は当時、織田信長と対立関係にあり、義昭を保護することで、信長に対抗する大義名分を得ようとしました。こうして義昭は、毛利氏の庇護のもと、瀬戸内海の要衝である鞆の浦へと身を寄せることになります。1576年のことでした。
「鞆幕府」の機能と将軍の権威
鞆の浦に滞在した義昭は、形式的ではありますが、この地を「室町幕府」と称しました。これは一般的に「鞆幕府(ともばくふ)」と呼ばれています。
鞆幕府には、以下のような特徴がありました。
- 将軍としての公文書発給: 義昭は鞆において、引き続き将軍としての命令や感状を発行していました。これは、自身の正統性を主張し、各地の武将に協力を求めるための重要な手段でした。
- 反信長勢力の結集: 毛利氏だけでなく、九州の大友氏や島津氏、さらには大坂本願寺など、信長と敵対する勢力は、義昭を名目上の盟主として、反信長包囲網を形成しました。
- 外交窓口としての役割: 義昭のもとには、各地の大名からの使者が訪れ、情報交換や連携の協議が行われていました。鞆は、まさに反信長勢力の外交拠点となっていたのです。
しかし、この鞆幕府は、将軍としての実質的な軍事力や支配領域を持たない、名目上の政権に過ぎませんでした。義昭が抱く室町幕府再興の夢は、現実の厳しさの中で、徐々に遠のいていくことになります。
鞆の浦が将軍を迎えた理由:地理的・歴史的背景
では、なぜ義昭は鞆の浦を選んだのでしょうか。そこには、この地の持つ地理的、歴史的特性が大きく関係していました。
- 瀬戸内海の要衝: 鞆の浦は、古くから潮待ちの港として栄え、瀬戸内海交通の要衝でした。各地からの船が行き交うこの場所は、情報収集や人脈形成に有利でした。
- 毛利氏の支配圏: 鞆の浦は、当時、義昭を保護していた毛利氏の支配圏内にあり、安全を確保しやすい場所でした。
- 歴史的な背景: 鞆は、南北朝時代にも足利尊氏が上陸し、その後の歴史に大きな影響を与えた地でもありました。義昭は、この地の歴史的な意味合いにも期待を寄せたのかもしれません。
これらの要素が複合的に作用し、足利義昭は鞆の浦を室町幕府再興の最後の舞台として選びました。
まとめ:夢の果てと「鞆幕府」の意義
足利義昭が鞆の浦で再興を夢見た室町幕府は、ついにその夢を叶えることはできませんでした。彼はその後も毛利氏の庇護を受け続け、豊臣秀吉の時代には大名として遇されるなど、波乱の生涯を送ります。
しかし、鞆の浦での「鞆幕府」の存在は、将軍の権威が失墜しつつあった戦国時代にあっても、なお室町幕府という存在が人々に与える影響の大きさを物語っています。そして、その将軍を支えた鞆の浦は、歴史の大きな転換点において重要な役割を果たした地として、今もその物語を静かに語り継いでいるのです。

義昭公が鞆の浦で幕府を立てられた話、まことに興味深きこと。
将軍としての権威を保ち、信長に対抗する大義名分を求めての決断であったか。
安芸の毛利公の庇護なくしては成し得ぬことであったろう。
しかし、京を追われてなお、将軍の座を諦めなかったその気骨、見事と申すほかない。
鞆の浦は、まこと、歴史の舞台にふさわしい地じゃったな。
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