「一本の矢は容易く折れるが、三本の矢は決して折れない。」
毛利元就が三人の息子に伝えたとされるこの有名な教え、「三本の矢」。その三男である小早川隆景は、兄の吉川元春とともに「毛利両川」として、本家である毛利隆元を支えました。豪勇で知られる元春が陸の戦を担ったのに対し、隆景は瀬戸内海を制する水軍を率い、智略をもって毛利家の天下取りを支えたのです。
この記事では、「三本の矢」の一人、小早川隆景がどのように水軍を築き、いかにして智将として名を馳せたのか、その物語を紐解いていきます。
「陸の吉川、海の小早川」—なぜ隆景は水軍を率いたのか
小早川家は元々、瀬戸内海沿岸に勢力を持つ有力な国人領主でした。毛利元就は、隆景を小早川家の養子とすることで、毛利家の勢力圏を瀬戸内海に広げると同時に、小早川家が持つ水軍の力を手中に収めました。
隆景がこの水軍を率いたことは、毛利家にとって大きな意味を持ちました。当時の中国地方は、陸路だけでなく、物流の大動脈である海路の支配が重要でした。隆景は水軍を整備し、時には海賊衆を取り込みながら、その勢力を拡大していきました。この水軍こそが、毛利家が周辺勢力との戦いを有利に進めるための、最大の切り札となったのです。
知将・隆景の真価が発揮された厳島の戦い
隆景の智略が最も光ったのが、天文24年(1555年)の厳島の戦いです。
当時、毛利家と覇権を争っていた陶晴賢は、大軍を率いて厳島に上陸しました。兵力で劣る毛利元就は、正面からの激突を避け、奇襲作戦を決行します。
この作戦において、隆景率いる水軍は極めて重要な役割を果たしました。
- 海上の封鎖: 隆景の水軍は、厳島と本土を結ぶ海路を完全に封鎖。陶軍の退路を断ち、援軍を寄せ付けませんでした。
- 夜間の奇襲上陸: 嵐に乗じて、隆景は主戦力となる兵を厳島へ秘密裏に上陸させました。この奇襲により、陶軍は完全に意表を突かれました。
毛利軍が陸から、そして隆景の水軍が海から攻め立てることで、陶軍は壊滅的な打撃を受けます。この勝利は、毛利家が中国地方の覇者となる上で決定的な一戦となりました。この戦いは、隆景が単なる武勇に優れた武将ではなく、戦況全体を見通す優れた戦略家であることを証明したのです。
天下人・豊臣秀吉も認めた智謀
厳島の戦いの後も、隆景の水軍は毛利家の勢力拡大に貢献し続けました。そして、天下統一を進める豊臣秀吉との対立が深まると、隆景は外交手腕を発揮します。
秀吉の中国攻めに対して、武力では抗しきれないと冷静に判断した隆景は、兄の元春や他の家臣が主戦論を唱える中、早期の和睦を主張しました。そして、清水宗治の切腹という犠牲を払いながらも、毛利家の存続という最善の結果を導き出したのです。
その後、隆景は秀吉にその才覚を高く評価され、五大老の一人に数えられました。これは、単なる武力だけでは成し得ない、隆景の智謀と政治的手腕が認められた証です。
晩年の隆景は、後継者問題に苦悩しましたが、その死の直前まで毛利家と豊臣政権のために尽力しました。
「三本の矢」の結束を体現した生涯
隆景の生涯は、「三本の矢」の教えをまさに体現したものでした。兄・隆元と元春を支え、自らの才能を毛利家全体の繁栄のために惜しみなく使いました。
小早川隆景は、豪傑・武闘派のイメージが強い戦国時代にあって、冷静な判断力と卓越した知略で時代を生き抜いた稀有な存在です。彼の智略によって築かれた水軍は、毛利家が天下に並ぶ大勢力となる上で不可欠なものでした。
小早川隆景という一人の智将の存在は、「三本の矢」の結束が単なる武力ではなく、多様な才能と協力によって成し遂げられたものであることを教えてくれます。

「知将」の名にふさわしいお方。
兄の元春殿が陸を、隆景殿が海を司り、毛利家の天下取りを支えられた。
厳島の戦いでの奇襲は、隆景殿の智略なくしては成し得ぬ大仕事。
武力だけでなく、外交や政治にも長け、豊臣秀吉公からも五大老の一人として認められた。
「三本の矢」が折れなかったのは、三人がそれぞれの才を活かし、互いを支え合ったからこそ。
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